小池一三の週一回

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設計の作家性と普通の家のあいだ

「週一回」の予定なのに、しばらく休んでいました。暮れの12月1日に転倒して大腿部の付け根を骨折し、手術・入院・リバビリの日々を過ごし、ほぼ一ヶ月で仕事に復帰しました。復帰後、ほかの仕事に追われ、この原稿から離れていましたが、再開します。

藝大村上藍さんの修論発表会から

先日、東京藝大の修論発表会にでかけました。亡くなった奥村まことの生涯とその設計について、村上藍さんが発表され、そのあと開かれた懇話会にも参加しました。こころ温まる、とてもいい会でした。
奥村まことは、東京藝大の建築科を卒業した最初の女性建築家です。2016年2月11日に亡くなりました。私は、息を引き取られるときに居合わせ、亡くなる一ヶ月前にお手紙をいただいています。あれからもう2年経ちます。そのお手紙は、空気集熱式ソーラーの現状を憂う痛切なもので、私はそれを「遺言」と受け止め、空気集熱の取り組みを本格的に再開したのでした。
村上藍さんの発表の後、彼女をめぐってパネルディスカッションが行われ、彼女をよく知る人たちから、色々な話がありました。料理の話など、身辺的な話が多かったのですが、戦後すぐに女性建築家の会を共にした方や、吉村順三設計事務所時代の同僚の話などもあって、私の知らない彼女を感じることができてよかったです。
私も手を上げて喋ろうかと思いましたが、そこで話すには少しややこしい話なので、夕方から上野の精養軒で開かれた懇話会の席で、秋山東一さんや真鍋弘さん、ツキデ工務店の築出さん、中村謙太郎さんなどと、あれこれ話しました。

奥村まことの吉村順三設計事務所での仕事

私が、彼女の設計の仕事に関して、ずっと関心があったのは、吉村事務所時代の仕事と奥村事務所になってからの相関性でした。吉村事務所での仕事の一つに「こうがい町の家」(音楽評論家の遠山一行邸/1958年と1969年)があります。また、彼女らしいと言われる仕事に「湘南の海辺の家」(歴史学者・羽仁五郎・シュレム邸として建築された2戸1住宅/1966年)があります。共に精緻に満ちた作家性の高い仕事です。
それなのに、奥村まことは生前「私は建築家ではない」と言っていました。
今回の懇話会で聞いたところでは、まことの先生の一人でもある、大家たいかの吉田五十八さんから、同時代で「女流建築家と呼べるのは林雅子だけ、と言われたことが影響しているのかも」という話が飛び出しましたが、人の評価がどうであれ、私の知る限り、彼女の考え方の軸に作家性へのこだわりは希薄でした。
しかし私は吉村事務所時代の彼女を知りません。この二つの仕事は、吉村順三の仕事であり、彼女は一人の担当者でありましたが、吉村事務所の担当者として求められたのは極めて作家性の高い仕事でした。まことが、それに応える逸材であったことは、葉山に建てられた「湘南の海辺の家」が物語っていて、荒海に立ち向かう男性的な力感と、低く抑えられた柔らかな屋根の線が印象的な家です。家主は変わりましたが、今も宿泊(1日1組)できるレストランとして運営されています。

「湘南の海辺の家」(歴史学者羽仁五郎&シュレム邸)

奥村事務所時代の仕事

奥村まことは、1954(昭和29)年に吉村順三設計事務所に入所し、同年に、藝大の二つ先輩の奥村昭雄と結婚し、1957(昭和32)年に娘を出産しましたが、吉村事務所には19年間在籍し、1972(昭和47)年に、練馬区中村橋の自宅内に奥村設計所を設立し。独立しました。この年は、奇しくも私が住宅業界に職を得た年でもあって、それから6年後に奥村夫妻とおつきあいを開始することになりますが、あの仕事は、独立して6年目の仕事だったんだ、と今にして思います。
奥村事務所時代の彼女の仕事は、吉村事務所時代と異なって、一様に括れないものがあるように思います。吉村事務所時代の仕事が、作家性の高いものであったのに対し、奥村事務所の仕事では、図面枚数3枚だけのものがあったりして、仕事ぶりが変質したように見受けられます。
私が関係した、浜松の連棟住宅の設計は、昭雄さんが基本設計し、まことさんが担当しました。この仕事は、細部のディテールに及ぶ図面が引かれました。その工務店は「檜造りの家」を標榜する地場の工務店であったので、普段は、それこそ3枚の図面で家を建てる工務店でした。設計図書が届いたとき、工務店メンバーの驚きは、建築家はこんなにたくさんの図面を引くんだ、というのものでした。地元の工業高校を出たばかりの村松篤(後にOMソーラーの最初のモデルハウスを設計)は、頬を紅く染めながらながら、まことの図面に見入っていたことを、この間のことのように思い出します。
この仕事は、奥村事務所では例外的な仕事だったようです。昭雄さんの仕事は、他の所員が担当することが多く、密度濃く二人がコンビを組んで行う仕事は数えるほどで、それは台所がきびしい当時の事務所の経営を反映しており、それぞれ別に仕事を行なわれていたように推量されます。
当時、事務所におられた稲田豊作さんは、給料の遅配が半年続いているといった話が伝えられていたけど、新婚夫婦のわが家は食えていたし、赤貧という感じではなかった、殊に事務所での食事は豊かだった、といいます。家が豊かな生活に心配のない所員だけ後回しされたのかも知れません。まことは、そうした見切りに富んだ人でした。
事務所の内情を知った私は、勤務していた工務店に掛け合って、建築家の設計料について論じ立て、それなりの設計料を引き出し、少しでも役に立ちたいと思いました。
けれども、昭雄さんもまことも、設計料の多寡で仕事の質を判断することはありませんでした。まことは、昭雄さんの「作家性」は担保していましたが、この仕事についてみると、二人による仕事だということと、引かれる図面に、慎重かつ細やかな配慮が見られました。
先に述べたように、その工務店はおよそ建築家の仕事と無縁の工務店で、図面がなければ設計意図をかたちにすることができません。図面に慎重な配慮が見られるということは、つまりその工務店に対する教育的配慮があったということです。つまり、ここは詳しく描かなくては相手が困るから、という質のものでした。

浜松の連棟住宅Aの矩計図(図面は『奥村昭雄のディテール』より.彰国社発行)

※ 煙道熱交換ストーヴ暖房は、空気集熱式ソーラーの方法へと発展しました。

まことは、浜松の現場に足繁く通いました。駅に迎えに出るのは私の役目でした。新幹線口の階段を降りてくるまことは、終戦直後に農村に買い出しに出掛けるおばさんのようないでたちで、乗降客の中でひときわ目立ち、異相のものでした。階段の途中で私を見つけると、朗らかに手を上げて合図をよこし、改札口に立つ私に、夜っぴて作ったであろう模型や図面を、毎回のように「はい、これ!」といって手渡してくれました。
彼女の口癖は、自分のことを「まことはね」と、高い声で喋り出すことでした。文中、敬称なく「まこと」と記すのは、そんな少女性を持った彼女に親しみを感じるからで、彼女はまことに天衣無縫の人でした。

市井しせいのシステムとしての応答解

藝大での村上藍さんの「修論発表」のあとパネルディスカッションで語られた話の中で印象的だったのは、まことは、設計した時間を記録することを殊のほか大事にし、所員にも奨励していたことでした。
彼女はメモ魔だったので、その記録はB5のノートにびっしり記録されていて、私がそれに感心を寄せると嬉しそうにそのわけを喋ってくれました。こういう場合、昭雄さんのそれは長口舌のもので、話し出したら2時間は覚悟しました(一説には4時間)。まことのそれは、軽快かつ端的なもので、薫風のんどより来たるといった感じの説明でした。
奥村事務所での彼女の仕事は、図面枚数3枚だけのものもあれば、浜松の連棟住宅のように念入りなものもありました。時間をどれだけ掛けるかを設計料の算定根拠になるのですが、予算がないからといって簡単な図面で済ますというのでなく、設計の質と、それを施工する大工・工務店の実力の読み取りを前提にされていたように思います。
浜松の連棟住宅は「秘技」とされる「煙道熱交換ストーヴ暖房」を設計に盛り込んでいたり、また、吉村事務所がオハコとしたラワンベニアを内装に用いたり、「吉村障子」や、山吹色の鳥の子の和紙を引き戸に用いたり、という展開で、それを建築家の仕事の何たるかを知らない工務店で施工しようというのですから、たくさんの図面と現場での立ち会いと、くどいまでの直接指導を必要としました。
当時、私が所属した工務店のメンバーはパニックに陥りましたが、奥村事務所の勝手を知っている、例えば渋谷の広・佐藤工務店さんや、京都のツキデ工務店、甲府の小澤建築工房あたりなら、あ・うんの呼吸でやれるわけです。
まことの方では、平面と断面の寸法があれば、やってもらえるというアテがあり、お施主の懐具合や、設計に臨まれるものを勘案しながら、ムリなく運べると見ていました。それは、まことの仕事を何回も経験し、仕事の練度、経験知あってのことで、仕事の納め方の「職人性」ということが、そこにあるように思います。
ある時、秋山東一さんのフォルクスハウスについて、まことに「どう見ておられますか」と聞いたことがあります。まことは、実にはっきりと「システムハウスという言葉が嫌い」と言い放ちました。
フォルクスハウスは、ベースとゲヤ、グリッドとモジュールによるシステムハウスだと盛んに喧伝けんでんしていたので、それを指して言われたのですが、彼女は、もっぱら住む相手や工務店の内情に合わせて設計する、というやり方であって、あたかも芝居小屋の座付作者のように図面を起こし、納めることをモットーにしていましたので、にわか仕込みのやり方を好まず、こういう物言いになったのだと思います。
当時の建築家は、何しろ設計枚数が多く、吉村事務所は原寸ということを頭に置いて設計していましたので多く、この流派の流れを組む永田昌民さんなどは100枚を超えるおびただしい数の図面を、毎回、手書きで起こされていました。
まことも、そういう「作家」の世界を生きた人でしたが、ある時、そんなプロセスを必要としないで済む仕事があることを悟ったように思われてなりません。
吉村事務所では、高水準な仕事で知られる水沢工務店であっても、毎回、膨大な図面が起こされました。それは15%を超える高い設計料に見合う「商品」であり、それだけの時間を要したことを表すあかしでありましたので……。
しかし、まことが身近に接している人や、予算がないけどいい家を欲する人の仕事に、それを強いるのは酷だと思ったのでしょう。かといって、設計を原寸で考えるという作法を捨てたわけでなく、それをいつも頭に置きながら、図面枚数3枚の断面と、立面と。配置図と平面図で表し、それをちゃんとこなし得る工務店があれば成立することを、数ある仕事の応答解を通じてつかんだのではないか、と思われるのです。
真鍋弘さんから、「長年の吉村事務所時代の修羅場が彼女にそれを可能にさせたのでしょう。キャベツでもレタスでも包丁を使わずに食べる。そのほうが旨いという。彼女の設計の仕方とどこか似ていますよね」とのコメントをいただきました。
まことは、たいがいの仕事を受け請いました。昭雄さんに好きな仕事をさせ、事務所の経済をまかなうということもありましたが、まことは、それで幸せになれるお施主が沢山いることを知ったのです。
このやり方は、平面と材料が決まれば、たちどころに空間化される日本の伝統的な木割術の現代的応用といえないでしょうか。
江戸後期から明治時代の普請道楽の施主と職人の関係を見ると、相互に言葉を多く用いることなく、「あれ」「あれですね」という片言で通じたという話を何かで読んだことがありますが、この通じ合いというか、現代的にいうなら「協同・協働性」ということになるのかもしれませんが……。

ベーシックハウスorスタンダードハウス考

私の年来の関心は、日本の普通の家をステキなものにすることです。その方法としてのベーシックハウスorスタンダードハウスに、ずっと取り組んできました。
建築家の秋山東一・三澤康彦と三澤文子・石田信男・半田雅俊・稲田豊作・趙海光・郡裕美・村松篤各氏との仕事、最近では堀部安嗣氏と組んでの一連の仕事は、空気集熱式ソーラーと、近くの山の木で家をつくる運動などと並んで、私のライフワークとするところです。
今回の藝大での「修論発表会」を通じて、まことのやり方は、彼女が嫌う「システム思考」そのものではないか、とふと思ったのでした。
それは山本周五郎の小説のように平明で、気負うことない日常的な作法としてあり、建築家と工務店のよき関係を生み出すものでした。図面3枚で、まことらしい世界がカタチになるということは、練度を積んだ工務店あっての協同・協働の仕事であり、それ自体、一つのシステムハウスというべきではないか、と思うのです。
私はそれを「市井しせいの設計システムとしての応答解」と規定しました。まことは、建築主の家に出向いて、家族の話を聞き、生活ぶりや家具を丹念にスケッチして仕事に取り掛かります。そこは、どの建築主に対しても丁寧でした。その応答を通じて図面を起こし、勝手知ったる工務店と組んでたくさんの家をつくりました。
それは、工務店がやってきた「注文住宅」の手法に似ているようで、根本のところが違います。まことのそれは、「作家」として住宅を生んできた背景を持っていて、その裏付けを持った仕事であったことではないでしょうか。

●お知らせ
「住まいマガジンびお」では、中村謙太郎さん(「暮らしの時代 美術・デザイン・建築 –– 味岡伸太郎の仕事」を書いていただきました)の連載第2回として、奥村まことさんを取り上げてもらいました(暮らしの時代 住まい・暮らし・居場所––建築家・奥村まことの仕事)。本文は、その露払いのような原稿です。

著者について

小池一三

小池一三こいけ・いちぞう
1946年京都市生まれ。一般社団法人町の工務店ネット代表/手の物語有限会社代表取締役。住まいマガジン「びお」編集人。1987年にOMソーラー協会を設立し、パッシブソーラーの普及に尽力。その功績により、「愛・地球博」で「地球を愛する世界の100人」に選ばれる。「近くの山の木で家をつくる運動」の提唱者・宣言起草者として知られる。雑誌『チルチンびと』『住む。』などを創刊し、編集人を務める。