暮らしの時代
住まい・暮らし・居場所––建築家・奥村まことの仕事
人々の「暮らし」の様相が、その時代を象徴する風景となるとき、その暮らしがどのように作られたのか、想像したことがあるでしょうか。
時代ごとにあるべき「暮らし」を描き、美を添えてきた達人たち。彼らの仕事によって、時代はつくられたとも言えます。
では、「暮らしの達人」の仕事とはどのようなものなのか。
シリーズ第2回は、女性建築家の故・奥村まこと。その強烈な個性で多くの人に影響を与えた一方で、建築家としての人生はそれほど明らかにされていなかった。そんなまことを、住宅業界に長く携わる編集者・中村謙太郎が辿り、まことがもたらした「暮らしの時代」の輪郭を浮かび上がらせます。
Vol.2 黒姫山荘と薪ストーブの謎
機能的で端正な山荘
安曇野に建つ黒姫山荘のレプリカは玄関および一部が省略され、中に入ることはできない。ただし窓から室内の様子がよく分かる。
平面形状は4間四方のほぼ正方形で、南側にLDKと1段上がった和室があり、和室から北側に画室が続いている。
平面図によれば、北側中央の玄関から画室、LDKの両方にアクセスでき、玄関>画室>和室>LDKが、ぐるっと回遊できる機能的な動線計画であることが分かる。
配置計画においてはロケーションとの関係に細心の注意が払われ、展示資料によれば、画室からも居間からも野尻湖がよく見えるように配置と床高を設定したようだ。
一方、矩計断面図を見ると、LDKの天井高は2,370ミリ、和室は床を180ミリ上げた上に天井も360ミリ下げているから、天井高は1,830。かなり低く抑えられている。
これは畳の上に座った目線からの眺望がよかったことに加え、和室からLDKを見たときの空間の広がりをより効果的にする意図があるように思える。
2002年から2010年にかけて女性建築技術者の会会報で連載したエッセイ〈まことの徒然草〉の中でも、まことは「狭くて天井の低い部屋から、それよりも少しだけ天井が高く面積もある部屋に行くと、相当広い部屋と感じることはないか」と指摘しているのだ。
また矩計断面図によれば、屋根勾配は4寸5分(約24度)で、棟から軒先までの垂木の長さを計算すると、約5.3メートル。これなら規格材で十分に間に合う。まことが経済面に十分配慮していたことが見て取れるポイントである。
もっとも、竣工後ほどなくして周囲の木が育ち当初の眺望が得られなくなったため、ちひろは2階を増築して画室を移した。したがって現在の屋根はもう少し急勾配になっている。増築にまことは関わっておらず、屋根のシルエットが変わったことを、晩年に至るまで残念がっていた。
薪ストーブの謎
LDKに視線を移すと、これが何とも居心地よさそうだ。
居間の西側には造り付けソファがあり、ソファに腰かけると、対面にある一段高い和室と視線がうまい具合に交差するのがよく分かる。
居間の北側にあるキッチンはシンクと配膳台があるだけで、炊飯器やジューサーは置かれているもののコンロがない。
キッチン脇にある薪ストーブの天板の上に鍋があるから、どうやらこの薪ストーブで一通りの調理をまかなっていたようだ。
『ちひろを訪ねる旅』によれば、ちひろは薪ストーブの前に座っている時間をこよなく愛し、家族がスキーを楽しむ間、薪をくべ、鍋でシチューやぜんざいをこしらえていたという。
実は、この薪ストーブ、かなりの曲者なのだ。
仕組みはいたってシンプルながら形に特徴がある。前後に長く、前方に斜め上を向いた焚き口が付いている。また、後ろ半分は底板が一段上がってから後方の煙突に近づくにつれて上向きに傾斜しており、そのシルエットがなかなか格好いいし、部屋の中でおさまりがいい。
しかし問題はそこではない。
この薪ストーブは「猪谷式薪ストーブ」と呼ばれており、元は日本の近代スキーの草分け的存在・猪谷六合雄(いがや・くにお 1890~1986年)が考案したものなのだ。
猪谷六合雄。この名にピンとくる人がいるのではないか。
猪谷は、息子である猪谷千春を日本人初の冬季五輪メダリストに育てた指導者であると同時に、独自のライフスタイルで知られた人物である。
生まれ育った赤城山を皮切りに、国後、乗鞍、志賀高原などに移住を繰り返し、その都度自力建設した小屋に住みながらゲレンデやジャンプ台を自作し、スキーに明け暮れたのだ。その途上で、試行錯誤の末にできあがったのが、猪谷式薪ストーブだった。
もちろん既製品が売られていたわけではなく、まことは何かに載っていた写真を見ながら、見よう見まねで製作したのだろう。
実際、本物の猪谷式薪ストーブと黒姫山荘の薪ストーブにはわずかながら違いがある。
猪谷の自著『雪に生きる』(羽田書店)に掲載された薪ストーブの写真を見ると、天板に開けられた丸い穴に炊飯用の圧力窯がはまっている。対して、黒姫山荘の薪ストーブは、シルエットはほぼ同じだが圧力鍋を使っていないようだ。
おそらく、まことが薪ストーブを選択するにあたって、使い勝手を考慮したのはもちろん、暮らしに関わるもの全てを自作してしまう猪谷六合雄のバイタリティにシンパシーを覚えたことも理由の一つだったのだろう。とはいえ、圧力釜までまねるのは、やや凝り過ぎだと判断したのではないか。それについては、追って詳述したい。
猪谷式薪ストーブ再び
1978年頃、木曽三岳奥村木工所が三岳に木工場を構えた際、室内の暖房として、再び猪谷式薪ストーブを採用したのだ。
『奥村昭雄のディテール』によれば、今度はさらに工夫を加え、煙突を一回り大きなダクトで囲い、排熱をファンで床面近くまで送り出すことで、暖房効果を上げている。
これは昭雄が設計した「星野山荘」(1973年)で、ポット式石油ストーブの煙突を二重にし、排熱をファンで床下まで送り込んだ「煙道熱交換方式」の応用といえるだろう。
木工場の建設時から在籍し、有限会社KAJART(カイアール)と改名後も同所で木工家具を製作する吉田亞人(つぐと)によれば、工房の設計は夫の昭雄が担当したが、薪ストーブ採用の経緯については、特に聞いていないという。
黒姫山荘の設計時、すでに昭雄とまことは結婚していたから、まことが黒姫山荘で猪谷式薪ストーブを採用した際の感想は当然伝わっているはずだし、薪ストーブの選択にあたって、まことと何かしら相談した可能性は十分に考えられる。
それにしても、仕組みはシンプルながら圧力窯を搭載したオリジナルの猪谷六合雄と、それを簡素化したまこと。さらには、自らのアイデアを付け足して進化させた奥村昭雄。
この違いは、そのまま3人の住まい観の違いを現わしているようで興味深い。
建築家・奥村まことに対する評価
ところで、まことと近しかった方々に、建築家としての奥村まことに対する評価を訊ねると、面白いぐらい見解が分かれる。
一つは、住まい手は満足しているようだが、“作品”としてとらえるには「どうも……」という見方。
もう一つは、まことこそが、吉村順三の精神を引き継いだ建築家だ、という見方だ。
たとえば、建築家・秋山東一は、こう語る。
「何しろ、まことさんが、いちばん吉村に近い人だと思うんですよ。
だって、住まい方の態度として、増築を重ねるっていうのは吉村そのものじゃない。吉村の方南町の自邸も、延々と繰り返して増築したものでしょ。家を増築したり改築したりするのは当たり前だっていう。それは建築家の姿勢として、明らかに吉村的ですよ。
中村橋の家は、家族構成が変わる度に、みんなで“席替え”をする。それは家というものを持続させる知恵じゃないですかね」。
つまり、中村橋の奥村家住宅+アトリエが1957年の創建から現在に至るまでことあるごとに増築や改修を繰り返してきた、その推移そのものが、吉村順三的であると秋山は指摘するのだ。
(つづく)