奥村まことの仕事第3話イラスト

暮らしの時代 
住まい・暮らし・居場所––建築家・奥村まことの仕事

人々の「暮らし」の様相が、その時代を象徴する風景となるとき、その暮らしがどのように作られたのか、想像したことがあるでしょうか。
時代ごとにあるべき「暮らし」を描き、美を添えてきた達人たち。彼らの仕事によって、時代はつくられたとも言えます。
では、「暮らしの達人」の仕事とはどのようなものなのか。
シリーズ第2回は、女性建築家の故・奥村まこと。その強烈な個性で多くの人に影響を与えた一方で、建築家としての人生はそれほど明らかにされていなかった。そんなまことを、住宅業界に長く携わる編集者・中村謙太郎が辿り、まことがもたらした「暮らしの時代」の輪郭を浮かび上がらせます。

Vol.3  建築家・奥村まことをどう捉えるか

師・吉村順三からの影響

まことは、吉村から受けた影響について、かつてこう語っている。
「私が影響を受けたのは、人の動きと物の見え方の関係みたいなものね。(中略)色とか形とか、天井高とか廊下の幅とか。そういうものは全て、そこにいることを想像して考える。そうやって設計した建物がうまくいくと、とてもうれしそうな顔をしてましたね」(『チルチンびと』別冊44号「奥村昭雄&まことのバックボーンを探る」より)。
そこで思い出すのは、フランスの社会文化人類学者アンドレ・ルロワ=グーラン(1911~1986年)が唱えた説である。グーランは人間の知覚について、動物が道を巡回するときのような知覚と、鳥が空から全体を見下ろすような知覚の両方が視覚に結びつき、かつ並存している、と論じている。それに当てはめれば、吉村は巡回型の知覚を重視したといえるだろう。
確かに黒姫山荘は、人の動きにつれて目に入る光景がどう変化するかを丁寧に読み込んだ住宅である。吉村事務所に入所してから14年が過ぎ、吉村からの教えが血肉化した好例と見ていいだろう。

親密で居心地の良い空間

黒姫山荘は実に端正な小品であった。しかし吉村事務所から独立した後にまことが設計する住宅からは、造形的なスマートさが少しずつ薄れていったようだ。
建築家・奥村まことをそれほど評価しない声があるのも、そこに要因がある。
奥村事務所の元所員として奥村夫妻を見続けてきた石原朋子は、まことの住宅についてこう語る。
「確かに、かっこいいものをつくる人ではない。独特なんです。でも独特の中にも、お!というところが、あちこちあるわけですよ。それは一言でいいにくいのですが、得も言われぬ“まことセンス”なんです」。
石原が“まことセンス”に気づいたきっかけがあったという。
「ヒントになったのは、ルイス・カーン(アメリカの建築家 1901~1974年)が考案したデザインプロセスです。それは、人間の思考の感覚的な部分と思想的な部分を統合した“フォーム=何をなすべきかという指針”ができてこそ、デザインは成立するというものでした。それを知ってから、大事なのはデザインのうまいへたではないと思うようになって、そこで初めて、まことさんの設計が分かったんです」。
つまり、まことが設計する住宅は、その住まい手が住む家はどうあるべきか――その核心をついているからこそ住まい手に喜ばれるし、味わい深いということなのだろう。
初回で述べたように、まことは自身の設計した住宅を雑誌で発表することがほとんどなかったが、ほぼ例外的に『住宅建築』誌の編集長・平良敬一に請われて、同誌別冊『女性建築家の家づくり』(1996年、建築資料研究社)で住宅を1軒発表している。
掲載された住宅「古賀さんの家」は変形六角形の木造2階建てで、1、2階とも東南側に和室を置いている。2階和室の西南側は出窓に添って造り付けソファが設置されたリビングへと連続し、1階和室は寝室兼書斎で北側の書庫と行き来ができる。
外階段で2階の玄関から室内に進み、内階段で書庫と和室の間に降りるという動線になっていることから、1階の書庫と和室がプライバシー的に最上位であることが分かる。
確かに造形的なスマートさはないかもしれないが、平面図と数点のモノクロ写真から、親密で居心地の良い雰囲気が十分に伝わってくる住宅だ。

“町医者のような建築設計や”

『女性建築家の家づくり』の記事中、まことは自身のスタンスについて、こう語っている。
「先ず有名な建築家には、なる能力もなく、なりたくもない。作品をつくるという気持ちは殆どない。(中略)といったわけで、簡単に説明しろ、と言われると“町医者のような建築設計やです”と答えることにしている」。
“町医者のような建築設計や”とは、どういった意味だろうか。
つい先だって、東京藝術大学建築理論研究室の修士論文で奥村まことをテーマに取り上げた村上藍は、中村橋に残る全ての資料に目を通し、関係者への聞き取りを行った結果、こう推測する。
「確信を得ているわけではありませんが、やはり性格や資質も含め、色々な経験からきていると思います。
吉村事務所勤務時代に見てきた大きな設計プロジェクトや、お金持ちの施主の豪華で丹念な仕事というのを身をもって経験しているからこそ、大きな仕事を自分1人でこなすというのは難しいという考えがあったのかもしれませんし、昭雄さんという非常に優秀なパートナーが常に近くにいたこともかなり大きな要因だと思われます。事務所内では大きな案件のほとんどを昭雄さんが担当していますし、経営困難な時期にはまことさんが仕事を多くこなして経営を支えていたこともあったようです。
もちろん当時の時代性や施主の社会的階層というのも要因に含まれると思いますが、まことさんの社会主義寄りな思想も反映されているように思います」。
有名建築家を大病院の院長だとすれば、まことが目指したのは、下町で庶民とともに生きる赤ひげのような建築家像だった、ということだろうか。
一方で、空気集熱式ソーラーシステムの普及を通じて奥村夫妻と深い交流があった手の物語(有)小池一三は、日本の伝統的な木造普請の文脈から、こう指摘する。
「江戸時代の大工は木割図だけで空間化できました。常に原寸をイメージして図面を書く吉村事務所で鍛えられたまことの住宅も、お互いに慣れた工務店であれば、平面、断面、立面という3種の図面を渡せばこなせました。こうして、十分な予算がなくても建築家の意図を工務店が理解できれば、幸せな住まいづくりができる。そんな可能性を、まことは示してくれたと思います」。
日本ならではの木の住まいづくりの伝統が、吉村順三を介して、まことに受け継がれていたからこそ、まことのスタンスは生まれたという指摘である。
どちらも納得できる見解だ。

まことの建築的な思考

まことは“有名な建築家”には興味がなかったものの、建築そのものへの関心を捨ててしまったわけではなかった。
近しい人以外は、初回冒頭に紹介した通りのユニークな個性に、つい目が向いたが、実は極めて建築的な思考の持ち主だったのではないだろうか。
『まことの徒然草1』を全編読み通すと、至る所にその片鱗が垣間見える。

題名の通り日常雑感が中心でありつつも、時折、建築の話題が顔を出す。寸法のコントロールが空間に与える効果や、空気集熱式ソーラーを快適に使いこなすためのコツ、改修設計に必要な心得などなど。これが実に論理的で分かりやすい。
また、まことがシンパシーを抱いていた建築家の名前が、いかにもまことの建築観を表していて、興味深いのだ。

(つづく)

(1)女性建築技術者の会、会報『定木』309号(2009年2月2日発行)から321号(2010年4月20日発行)にわたって13回連載。その後、一冊の本にまとめられた。

著者について

中村謙太郎

中村謙太郎なかむら・けんたろう
編集者・ライター
1969年生まれ。1992年武蔵野美術大学造形学部建築学科を卒業後、『住宅建築』編集部、『チルチンびと』編集部を経て、2014年独立。建築関連の編集業務の他、土壁の魅力を一人でも多くの方に知ってもらうべく、建築家の高橋昌巳、遠野未来とともに「まちなかで土壁の家をふやす会」を結成。関東近郊で土壁の見学会や勉強会を毎月開催中。

暮らしの時代 
住まい・暮らし・居場所––建築家・奥村まことの仕事について

人々の「暮らし」の様相が、その時代を象徴する風景となるとき、その暮らしがどのように作られたのか、想像したことがあるでしょうか。 時代ごとにあるべき「暮らし」を描き、美を添えてきた達人たち。彼らの仕事によって、時代はつくられたとも言えます。 では、「暮らしの達人」の仕事とはどのようなものなのか。 シリーズ第2回は、女性建築家の故・奥村まこと。その強烈な個性で多くの人に影響を与えた一方で、建築家としての人生はそれほど明らかにされていなかった。そんなまことを、住宅業界に長く携わる編集者・中村謙太郎が辿り、まことがもたらした「暮らしの時代」の輪郭を浮かび上がらせます。