物語 郊外住宅の百年
第5回
ハワードの「田園都市」を日本はいかに取り入れたのか
「明日」を冠したタイトルへの想い
「明日本」において、ハワードは「田園都市」の意味と可能性、その見通しについて堂々と語っている。ハワードが書いたことは、トマス・モアが著した『ユートピア』(1516年刊)以降、ロバート・オウエンの「協同の村」、農業と手工業を基にしたラスキンやモリスの取り組みなど、連綿として続いたユートピア(理想郷)の具現化だった。
ハワードは、とりわけラスキンの『胡麻と百合』に感銘を受け、「自然の美しさがそこに住む人を抱擁する」という一節を、「明日本」の中で引用している。
「どうすれば多くの雇用機会と輝かしい展望・進歩がすべての人に保障されるのか、いかにすれば資本が誘致され富が創り出されるのか、どうすれば申し分のない衛生状態が確保されるのか、どうすれば美しい家と庭園を各人が持てるのか、どうすれば自由の範囲を広げられるか、どうすれば協調協力の最善の結果を幸福な人々が得ることができるかを示したい。」
ハワードは胸中に滾る思いを、焼きつくような文体で綴ったのだった。
当時のイギリスは、産業革命の弊害が顕になり、環境と生活の改善を希求し、協同の力でそれを解決しようという時代的な流れがあった。
ハワードがこの時代の幾多のユートピアンと異なるのは、田園と自然への郷愁を謳うだけでなく、構想する「田園都市」が事業的・経済的に成り立つことを、こと細かく説明していることである。
具体的な数字を示してのプレゼンテーションは、まるで事業企画書のようである。投資者に対する誘い水も随所に用意されていて、決して失敗しない、具体的で現実的な処方であることをハワードは示したのだった。
そうして5年後の1903(明治36)年に、建設のための費用10万ポンド(現在のお金に換算すると38億円)もの資金を集め、そうしてロンドン郊外に、それまで誰も成し得なかった「田園都市」を実行に移したのである。
これを促したのは、理想主義とリアリズムがない混ぜになった、ハワード独特の説得展開力にあった。哲学者や美学者が書いた本でなく、苦労人ハワードの面目躍如ということを、私は見出すのである。
人からお金を借りてまで発行に漕ぎ着けた1冊の本が、こういうストーリーを生むことを、ハワード自身、最初から見通していたのだろうか。
OMソーラーを起業した私の経験と比べるべくもないが、トントン拍子に事が運ぶことは、時代と事業がマッチングしたとき起こり得ることである。
「俺の言った通りだろう」と言いながら、信じられないことが現出している驚きを、ハワード自身、感じたのではあるまいか。夜明けにふと目覚めて、「夢ではないのだ」と頬をつねる日々があったと思われる。
晩年に撮影されたであろう、ハワードの立派なヒゲを蓄えた、偉そうな写真を見ていると、「ハワード君、やったね」と、私はつい冷やかしたくなるが、遡ること半世紀前、グーテンベルクによって発明された活版印刷を用いて、熱病に駆られたように走り抜いた速記者の姿を、この写真から想像することは難しい。鼻柱の強さと、ヒゲの下の口元に頑固さばかりが表に出ていて、成功者の肖像写真のヴェールに包まれているからである。
彼は食べるために速記の仕事を抱えながら、ラスキンやモースに思いを寄せ、寸暇を惜しんで「明日本」をせっせとまとめたのだった。電卓はなかったから、手計算で見通しを立て、「よし行ける!」と声を上げたことだろう。
ハワードの「明日本」は翻訳されて、瞬く間に世界に波及した。
アメリカでも、フランスでも、日本でも、「田園都市」を謳った街が造られた。それらは、本家とかけ離れたものが多々見られるけれど、世界的ブームを呼んだのは確かである。
それは近代を迎えた各国の、都市の膨張と郊外居住の流れを映し出してもいて、小林一三の歩みとも重なる。