「ていねいな暮らし」カタログ
第36回
脱消費主義的な考え方について
——『mahora』
今回も前回に続いて『mahora』を取り上げます。手のひらサイズの本誌の制作工程については公式ホームページの中でも明らかにされています。例えば『mahora』では、毎号異なる「結び」が製本作業の一つとして手作業で施されているのですが、これらは関根みゆきさんが監修されており、その号の「結び」の言われについては本誌の中で紹介されています。本を読む前に紐をほどくのは、大事なものに触れるような気分にさせられ、読む気持ちが準備される感があります(しかし、その後に結びを再現できず、はじめの一回だけの楽しみになってしまうのですが……)。
どうして、このようなつくりにしているのか。このことについて、編集の岡澤氏自身が本誌のホームページで明らかにしています。
「現在の出版界は、実は1日で数百タイトルもの本が刊行されているのですが、悲しいことに、その大半が人の目と手に触れる機会が満足になく、発売してすぐに大手古書チェーン店に並ぶものもある一方で、書店から返品され、断裁、焼却される本も決して少なくありません。/ 自分が携わった本が、燃やされて灰になる、ということは、言い換えると、自分が本に注いだ情熱と労力と時間も、灰になってしまうということでもあります。(略) / ということで『mahora』では、一冊ずつ手をかけてつくり、読者ひとりひとりに直接届ける、というやり方を考えました。本の制作から流通、販売まで、目と手の届く範囲でまかなうという発想です。したがって、少部数での刊行に行きつきました」1
このような「一冊しかない本をつくりたい」2 という思いのもとに、現行の出版のサイクルとは別の工程を構想し、そのプロセス自体も読者と共有するということを目指しています。それゆえ、本誌創刊号は350部限定となっており、一冊あたり3,800円という価格もこういったさまざまな工程が含まれてのものと思われます。
岡澤氏は、『mahora』を刊行する前に「『mahora』序・全派芸術のための覚書――あるいは全体性(ホリスティックネス)に向かうための美という扉」という文章を2017年11月に書いています3 。ここでは、平成の30年間を振り返る中で、こと東日本大震災を経た後に大量生産・大量消費の資本主義的な価値観だけでは立ち行かなくなったことを指摘し、ここから迂回する回路として美術作家たちの実践を参照しながら、民俗学や文化人類学的な物の見方を提示しています。おそらく、本誌を手をかけて作るということ自体もこの思考のもとに選択され、実践されています。
前回の記事にも書いたように、「ていねいな暮らし」を考えるときに、大量生産・大量消費のサイクルを批判し、自給自足ないしは地産地消を目指す考えが主となることが多いです。第20回で紹介した『murmur magazine』や第22回で紹介した『PERMANENT』、そして、第24回で紹介した『つち式』は自給自足実践に寄り添った記録メディアでもありました。この傾向は、国内に限らず『KINFOLK』や『可以』でも見られます。かくいう私自身も、尾道に住むことに決めたことの背景に、このようなものづくりの近さがあったと思います。
一方で、私たち自身が大量生産・大量消費の恩恵を受けていることも間違いなく、これらの程よい距離の取り方とはどのようなものだろうとも思っています。『mahora』では、文化人類学者の石倉敏明氏による「食と芸術についてのノート」という連載があります。2号では、この問いに関することが書かれていました。ここでは、「脱消費主義的な「交換の場所」」4 として、地域密着型スーパーや道の駅を取り上げたり、山を「デパート」に見立てるなど、消費の構造をそのまま扱うないしは比喩として扱いながら、自然環境と人工環境をどのようにつなぐかということが模索されていました。「自然」や「手づくり」といったものが今どのような価値を持つものとして捉えられているのか、そしてこれらは消費主義とどのような関係を取るものであると考えられているのか、今一度考えていく必要がありそうです。
(2)「結びのこと – mahora」https://www.mahora-book.com/days/musubi/ 2020年2月23日参照.
(3)本文章は、noteにて公開されています(後半は有料記事です)。https://note.com/kotaro_okazawa/n/n172db6d2c739 2020年1月24日参照.
(4)石倉敏明(2019)「食と芸術についてのノート 第二回 循環と分配の知恵」『mahora』第2号、p.92