まちの中の建築スケッチ

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蘆花の梅花書屋
——明治の武蔵野の面影——

恒春園

都内の茅葺民家ということで、以前、板橋区に旧粕谷家住宅を訪ねたが、徳富蘆花の残した恒春園の3棟の茅葺民家は世田谷区粕谷町にそのままの形で保存されている。たまたま名前が一致したのは面白い。世田谷にも粕谷氏が住んでいたのだろう。環八通りは、深い緑を眺めながら何度も通っていたが、公園を訪れたのは初めてである。明治元年生まれの蘆花が59歳で没したのち、愛子夫人により東京都に寄付され、1938年に都市公園として整備された。今は周辺も含め6倍の広さの80,000㎡に拡張された立派な緑地になっている。
このあたりは低層の住宅地となっているが、当時は雑木林と畑地であったろう。今や90万人の世田谷区域の人口も、1920年にはまだ4万人でしかなかった。京王線が新宿―調布間に開通したのが1913年、小田急線が新宿―小田原間に開通したのが1915年。まさに、日本がこれから欧米に追い付こうというスタートを切った時期である。
パンフレットによると、トルストイを訪問したときに別れ際に、農業を勧められ、1907年に、この地を選んで晴耕雨読の生活を送ったとある。日清戦争に勝利しつつも、日本全体がまだまだもやもやした状況の中で書かれた「不如帰」が、思いのほか好評を博し、さらにエッセーや詩、小編をつづった「自然と人生」を刊行したのが、1900年である。名声を得た二人が、当時、北多摩郡千歳村粕谷の地に住み始め、半農生活で自然に親しみつつ書き物をして20年ほどの日を送ったのかと想像した。入口すぐに、母屋、正面に梅花書屋、奥に幸徳秋水の名をとった秋水書院の3棟が廊下でつながっている。他の木々を圧する2本の立派なクロマツは、明治からのものであろう。
蘆花については、ほとんど知識もなかったので、さっそく図書館で、岩波文庫の「不如帰」と「自然と人生」を借りてきて読み始めている。後者の冒頭の、30ページほどの短編小説「灰燼かいじん」は、蘆花が生まれ育った水俣で9歳のころ受けた西南戦争の影響がもとになっており、興味深く読んだ。自然や暦を日記風に記しているが、文章のリズムは意外と心地よい。ちなみに「風」の冒頭は「雨は人を慰む、人の心を医す、人の気をおだやかならしむ。真に人をかなしましむるものは、雨にあらずして風なり。飄然ひょうぜんとして何処よりともなく来たり、飄然として何処へともなく去る。・・・」という具合である。
「不如帰」が初版から40年を経て、蘆花の死後、1938年に岩波文庫に加えられたときに愛子夫人が、「先入観なしに読んでほしい」と「あとがき」を書いている。「昭和戊寅春、白梅かおる恒春園にて」とあった。建物が残ることで、主の人生を思い浮かべると、明治の読みづらい言葉の連なりが、少し読みやすくなる気がしてくる。最後には、画家カミール・コローについての論説が載っている「自然と人生」を、これからゆっくり読むこととする。