まちの中の建築スケッチ

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東京駅丸の内口
——鉄道の表玄関——

東京駅丸の内口

辰野金吾(1854-1919)の設計による東京駅丸の内駅舎が竣工したのは1914年、わが国が近代国家として発展の道筋が見えてきた頃ということになる。辰野金吾晩年の作品として彼のさまざまな思いが込められている。関東大震災では大した被害がなかったものの、戦災では焼夷弾で被災し、2年かけて、3階建てを2階建てにして修復された。2000年ころから原型に戻そうというプロジェクトが動き出し、2007年から2012年にかけて創建当初の形に復元され、現在に到っている。
南北のドームの天井には、十二支のレリーフが再現されたり、屋根のスレートは雄勝産のスレートを再利用したものの、工事中に保管されていたものが東日本大震災で被害を受けたとか、外壁の稲田産花崗岩の加工は中国で行ったなど、さまざまの工夫が語られている。
皇居に正面を向けた、堂々とした駅舎である。東海道線が東京駅の完成により始点とするようになった後も、中央本線や東北本線が乗り入れ、さらには、新幹線の起点ともなり、発展を遂げている鉄道の表玄関にふさわしい建築の姿を見せている。バスターミナルも多くは北口や八重洲口に整備され、ゆったりとした広場が駅舎に風格を与えている。
2000年は、1998年改正の建築基準法の施行令・告示がすべて整備された年であるが、それまでタブーとされていた空中権を移転することが可能となった。丸の内では、東京ビルディングが最初にその恩恵に浴した。また、大正12年(1923年)竣工の丸の内ビルディング(通称:丸ビル)は、容積率1300%が1760%に緩和されて2002年に竣工し、1952年竣工の新丸の内ビルディングは同様に2007年に超高層ビルとして生まれ変わっている。
丸ビルの東京駅に面する角の日陰から、コロナ感染による緊急事態宣言下で、いつもよりは比較的人の流れの少ない丸の内駅舎の正面を眺めてスケッチした。ドームのある北口と南口が大きな開口になっていて、中央の玄関は、普段閉じられ、横に小さめの出入り口が用意されている。八重洲口側の高層ビルが借景になっている。
そういえば、2000年の前後であったと思うが、同僚であった建築史の鈴木博之先生(1945年―2014年)から、「東京駅舎復元のために、丸の内の容積率を売買することで原資を生み出せる、素晴らしいアイデアだろう」と言われたことを思い出す。歴史の先生は、建築物の保全の必要性を語るのであるが、資金調達について動くことはあまりないので、印象に残っている。確かにそんな制度が生まれなければ500億円ともいわれる東京駅復元プロジェクトは実現しなかったかもしれない。メリハリのついた都市の再開発ということになるのであればよいが、運用がよほどしっかりされないと、混乱を招くことになる。結果的には、容積率の上限がどんどん上の方に押しやられて、東京の一極集中を加速させることに役立ったようにも思うと、経済を回す工夫が、自分たちのまちの将来像を見えにくくする役割も果たしたのではないかと危惧する。
正面の威容は100年前と変わらないが、地下5階の総武線・横須賀線から地上2階3階に在来線、新幹線が配置されていて、まだまだ見えない発展を続けていくようである。

著者について

神田順

神田順かんだじゅん
1947年岐阜県生まれ。東京大学建築学科大学院修士修了。エディンバラ大学PhD取得。竹中工務店にて構造設計の実務経験の後、1980年より東京大学工学部助教授のち教授。1999年より新領域創成科学研究科社会文化環境学教授。2012年より日本大学理工学部建築学科教授。著書に『安全な建物とは何か』(技術評論社)、『建築構造計画概論』(共立出版)など。