まちの中の建築スケッチ
第60回
三溪園臨春閣
——木造家屋のテーマパーク——
学生時代にも、何人かで訪れた記憶はあるが、丘の緑に点在する建築のぼんやりとしたイメージしか残っていなかった。改めてすばらしい庭園であり建築群であることを思った。JR桜木町駅から市営バスで30分。ほぼ終点の三溪園入口で下車して住宅街を少し歩くと正門に着く。
入園料700円を払って、園に入ってすぐ現れるのが大池。鴨やアオサギが、そして池の端には亀も休んでいた。最初に現れるのは「鶴翔閣」で、原三溪(1868年―1939年)(本名は富太郎)が本宅とした建物である。入口まで行ったら、「貸し切りで使用しているので、入らないで下さい」と言われ、やはり見に来ていた同年配の男性が、「それなら、ちゃんと掲示しておけ」と、いたく憤慨していた。撮影の準備をしているようであった。
「御門」をくぐると右手に「白雲邸」。これは三溪が隠居所としていたというが、塀に隠れてあまり見えない。正面では、カップルが婚礼衣装で撮影をしていた。その横を抜けたところを曲がると、一番の景観が現れる。芝生がマウンドになっていて池は目に入らないが、正面に「臨春閣」左奥に「聴秋閣」が深い緑の中に配されている。日陰のベンチに落ち着いて腰かけ、多くの人の目に残っているであろう、晴天下の緑に囲まれた三溪園内苑の姿をスケッチすることができた。
いずれも大正初期の移築というが、臨春閣は紀州の徳川家から、聴秋閣は京都の二条城からという。明治初期に実業家として名を挙げ、美術品の収集家であり、茶人でもあったというが、その配置には、三溪の美意識が感じることができる。数寄屋書院造りは雁行した平面が桂離宮にも似ているが、大正、昭和と、現実社会の集まりなどにも使用されたであろう。そして、関東大震災を被っているということは、被害も尋常ではなかったと思う。原富太郎としては、横浜の震災復興にも尽力されたという。
スケッチを終えて、池を渡り、細い道を上って、聴秋閣を覗き、さらに上ると伏見城から移築されたという「月華殿」や、鎌倉から移築された禅宗の地蔵堂がある。別の小道を下りて行くと、いくつか茶室が現れる。
さらに進むと外苑になり、急な山道を登る感じで、「松風閣」に至ると、それは展望台になっている。もともと、三溪の祖父原善三郎が、明治初年にこの地を購入し、最初に別荘として建てたものだという。海を見渡せて、富士山も望む丘の先端にある。
少し下って、木々を抜けると、三重塔が現れるが、これも室町時代の燈明寺という京都の寺からの大正時代の移築と言う。そのお陰ということか、昭和62年に、本堂まで移築されている。また、奥には、白川郷の合掌造りも移築されている。これは、中の囲炉裏の火が見えて、煙が立ち込めていた。
一周すると、1kmを超えるくらいか。これは、まるで木造家屋のテーマパークだ。住まいあり、茶室あり、寺社あり、離れあり、蔵あり。しかも、その配置が、高低差や緑、池をうまくあしらった感じになっていて素晴らしい。建築は、その過去に、さまざまな人が暮らしの一部として使っていたわけで、それが風雪を経て100年、200年、300年と保全されていると、眺めているだけでも、歴史が偲ばれる。
パンフレットを参考にしたこともあり、いささか観光案内のようになってしまったが、素晴らしい建築群に出会えた。また、ゆっくりと散策したい。