まちの中の建築スケッチ

85

学士会館
——存続を図る震災復興建築——

学士会館

神保町の学士会館の再開発が公表され、この12月で一時休業することになっている。再開発計画については、詳細は明らかでないが、千代田区の環境まちづくり委員会などで議論されていることが、ネットでも見ることができる。区議の一人からは、学士会の専門家に計画のデザイン等にかかわってもらいたいとの要請もされている。

学士会館は、関東大震災直後の1928年に建てられたのが旧館である。白山通りを拡幅することのために曳家により存続させるが、1937年の増築部分の新館は解体されるという。再開発による日照権を問題とする、北側のタワーマンションの東京パークタワーは、白山通りの歩道部分がすでに広くなっている。再開発は東隣にあるSC神田錦町三丁目ビルの敷地も含めての計画ということで、1979年竣工で、まだ50年も経っていない、11階建て賃貸オフィスビルは、すでに解体が始まっている。学士会館の今の姿が見られるのは、あと数か月もないということで、スケッチに出かけた。同時期に建てられた神保町ビル別館は、やはり、再開発により、スケッチの直後に解体されてしまった。

学士会は国立7大学の卒業生の親睦の会であり、これまでに随分と利用させてもらって来た。若いころは友人の結婚式を始め、最近でもシンポジウムや忘年会などで、毎年1回以上なので、おそらくは100回を超えているかもしれない。1973年に都営地下鉄の三田線が開通して、神保町駅の出口に近く、便利な立地である。東京大学発祥の地であり、新島襄の生誕地でもある。立派な記念碑が立っている。さらには、地下鉄出口前に、大きな野球のボールを握った手の彫刻が、「日本野球発祥の地」であることを現わしている。

その地下鉄駅の最寄りの出口を出て向かうときは、フロントのある新館側のエントランスから入ることが多く、急ぎ建物に入ることが多く、なかなか全貌を見るなどということもなかった。旧館の正面玄関は、立派なアーチ状になっていたことも気づかなかった。1階とは言え道路面からは階段を上ることになるので、旧館の外壁に沿って、外部エスカレータがつけられている。老人の利用ということもあるのだろうが、非常にゆっくり動くので、地下鉄のエスカレータから上がって来た勢いで、いつも前にのめりそうになる。階段の側には、車寄せがあって大庇もあるが、テント構造で、いずれも、いささか取って付けた感がある。機能は付け加えられているのかも知れないが、全体の建築としては、もう少し何とかならないかと思う部分である。

旧館だけだと、四角の平面で、1階の石貼りと2階から4階のスクラッチタイル貼りという立面の変化はあるものの、やや単調な箱型ということになるので、後退した新館と組み合わされた今の姿は、悪くないと思う。果たして、旧館のみを曳家して、超高層のビルとうまく組み合わせた都市空間を形成してくれるのだろうかと思う。

再開発対象の敷地の容積率は、700%、600%のオーダーであり、床面積を多くできるなら、事業者としては、高さ100m超のビルを建てたくなるのであろう。容積率による規制が始まってから、都市では特に、容積率を増やすということで都市の活性化を図って来たということが、これからも続くのだろうか?容積率一杯の建物を建てることが社会にとって良いことなのか、考える時代になったと思う。改めて、スケッチをして眺めると、都市景観としてもクラブ建築としての風格がある。4階は宿泊部分で、窓にバルコニーがついている。スケッチでは街路樹と重なって少し見づらいが、旧館の玄関のアーチも構造体ではないが、堂々たる外装になっている。建築史家の鈴木博之(1945-2014)の学士会での講演(2008年5月)が学士会報に残されており、結びで「100年、200年という長い時間の中で継承されていくことを期待している」と言っている。ヨーロッパの様々のクラブ建築を思い描いての言葉だったのかと思う。

著者について

神田順

神田順かんだじゅん
1947年岐阜県生まれ。東京大学建築学科大学院修士修了。エディンバラ大学PhD取得。竹中工務店にて構造設計の実務経験の後、1980年より東京大学工学部助教授のち教授。1999年より新領域創成科学研究科社会文化環境学教授。2012年より日本大学理工学部建築学科教授。著書に『安全な建物とは何か』(技術評論社)、『建築構造計画概論』(共立出版)など。