ぐるり雑考
第7回
目をとじて、見えてくるもの
昨日まで信州の女神山にいた。「インタビューのワークショップ」という5泊6日の滞在プログラムで、テーマは「きく」こと。
話す行為というのは、実はかなり全面的に聞き手の存在に依存している。聞いてもらえるから話せるのであって、新作を公開した映画監督も、入院先のベッドの患者さんも、どんなに話してみたいことがあっても目の前の相手が「聞いていない」とわかったら、たちどころに言葉を失う。
話の上手い人が多い社会より、ひとの話をきける人が多い社会の方が、生き生きとしたものになるはずだ。めいめいが感じているささやかなことが、表現され、育ってゆくので。僕はそんな社会で生きたい。
今回、参加者の中に目の見えない女性がいた。歳は50代。20代で視力を失ったという。喜んで受け入れたものの、目の見えない人の「きく」は一体どんなものなのか、よくわからないままワークショップをむかえた。
たとえば目が見える人には、話し手の表情も見える。言葉で表現されることの大半は「考えた」ことで、本人がそのことを「いまどう感じているか」は、表情や身体や、声の方にあらわれやすい。
目の見えない人は、見える人以上にその質的な変化を感じ取りながら聞いているんじゃないか。敏感な「耳」を持つ人に、どんな機会の提供ができるだろう?
ワークショップが始まって3日目の朝。
ミーティングの場で、彼女は「昨日はじめて〝目をとじて〟相手の話を聞いた」、とみんなに伝えていた。
視力を失った人は瞼の筋肉が衰えて、数年のうちに半ば目をとじた状態になるのが一般的だそうだ。でも彼女は「私はここにいますよ。あなたの話を聞いています!」という感じで、見えない目の瞼をまたたきながら、相手が見えているかのように聞き、話しかけているのが印象的だった。
しかし、相手の話を聞いているとき、懸命に開いていたはずのその目が自然に〝とじて〟いることに気づいて、びっくりしたのだと言う。
驚きながら、でもすごく嬉しそうだった。「目をとじたら、すごく安心で。その人の話が、からだ全体に伝わってくるような感じがして」。こんなことがあるんだ、って。