奧村まこと

暮らしの時代 
住まい・暮らし・居場所––建築家・奥村まことの仕事

人々の「暮らし」の様相が、その時代を象徴する風景となるとき、その暮らしがどのように作られたのか、想像したことがあるでしょうか。
時代ごとにあるべき「暮らし」を描き、美を添えてきた達人たち。彼らの仕事によって、時代はつくられたとも言えます。
では、「暮らしの達人」の仕事とはどのようなものなのか。
シリーズ第2回は、女性建築家の故・奥村まこと。その強烈な個性で多くの人に影響を与えた一方で、建築家としての人生はそれほど明らかにされていなかった。そんなまことを、住宅業界に長く携わる編集者・中村謙太郎が辿り、まことがもたらした「暮らしの時代」の輪郭を浮かび上がらせます。

Vol.1  奥村まことという人

奥村まこと(1930~2016年)。
建築家であり、空気集熱式ソーラーシステム1の考案者でもある奥村昭雄(1928~2012年)を公私にわたり支えたパートナーで、自身も建築家であった人物だ(表題写真は2012年撮影、当時82歳)。
なにしろ個性的だった。
化粧っ気は一切なく、可能な限りTシャツにズボン、裸足にゴム草履で通す。
口を開けば伝法な物言いで、それでいて必ずユーモアのエッセンスが散りばめられているから、少しも嫌味がない。
道端の草に詳しく、おいしく食べる調理法をよく知っている。
唱歌から流行歌まであらゆる歌をこよなく愛し、何かにつけ替え歌をつくっては、譜面つきで周囲に配る。
その一方で、数字には滅法強いから恐れ入る。
しかし、建築家としての実績は、ごく近しい関係者にしか知られていなかった。
なぜなら、自身の設計した住宅を「建築作品」として発表したことが、ほとんどなかったからだ。
はたして奥村まことは、どのような建築家だったのだろうか。

 

まことの生涯

奥村(旧姓:戸塚)まことは1930年、生理学者・戸塚武彦(1897~1987年)の第三子として生まれた。

奧村まことの幼少期画、作画=戸塚武彦

戸塚武彦が自費出版した『嶺(とうげ)』の巻頭に出てくる1934年当時のまこと像(作画=戸塚武彦)

戸塚武彦は日本医科大学生理学教室の初代教授を務めた人物でありながら、明治以降の唱歌およびその替え歌に詳しく、また、戦時中に疎開した山形県鶴岡市で山野草が食用に使えることを知り、戦後、練馬区中村橋の自宅庭を葉菜や草花の雑草園にしている。
まことの雑草や替え歌を好む傾向は、どうやら父親ゆずりだったようだ。
1938年、まことは自由学園初等部に入る。
自由学園は、大正自由教育運動の流れの中で設立された、子どもの自主性を重んじる学校。まことはそこで「自分と人とを比較採点しない」という信条を学んだという。
1949年、東京藝術大学の建築科に進学。1953年には、単位を落として卒業できず留年したものの、同校の教授であった吉村順三(1908~1997年)の設計事務所に入る。
翌年には大学を卒業し、大学の一年先輩で吉村事務所の同僚でもある奥村昭雄と結婚している。奥村昭雄は舞鶴の海軍機関学校で終戦を迎えた後、東京美術大学に入学したという経歴の持ち主。『奥村昭雄のディテール』(彰国社)によれば、吉村事務所時代、空間のデザインに関しては吉村にかなわないため、対抗できる分野ということで空調などの設備方面に力を入れたという。
まことは吉村事務所におよそ19年勤務した後、1972年に独立。練馬区中村橋の自宅敷地内に奥村設計所を設立した。
一方、昭雄は1964年に吉村事務所を退所して東京藝術大学助教授に就任。1973年には同大教授に就任し、その間、自身の研究室で吉村とともに愛知芸術大学校舎の設計に携わる。1974年には、自由学園出身の建築家・遠藤楽(1927~2003年)とともに、老朽化が問題となっていたF.L.ライト設計・自由学園明日館を実測。その後は研究室と奥村設計所が事実上合流して設計活動を始めた。
また、夏季の仕事場として長野県木曽の三岳村に度々訪れたのがきっかけで、板倉の建物を譲り受け、1973年に移築・改築。その後、家具の木工場を併設し、1978年、木曽三岳木工所を開設。1980年には木曽三岳木工所と奥村設計所を統合し、木曽三岳奥村設計所として再スタートをきった。
1987年には、これまで昭雄が研究を続けてきた、太陽熱を取り込んで住宅の温熱環境を整えるパッシブソーラーの仕組みが、空気集熱式ソーラーシステム(OMソーラー)として結実。全国の工務店が自社物件でこのシステムを使い始め、考案者として、奥村昭雄の名は、より広く知られるようになった。
奥村設計所および木曽三岳奥村設計所において、昭雄は住宅から体育館、病院まで幅広く手掛けたのに対し、まことはほぼ一貫して小規模の建築を設計し続けた。その数、およそ105軒(昭雄との共同設計も含める)。まこと単独で担当したのは80軒で、そのうち70軒が住宅である。
2012年に昭雄が逝去した後も、まことは改修を中心に設計活動を続け、最後まで現役の建築家であり続けた。
2016年2月逝去。85歳だった。

いわさきちひろの山荘

まことは、吉村順三設計事務所時代から既に、吉村事務所を通さず、数多くの住宅を設計している。増築や改修も含めると、その数は21軒で、うち4軒は昭雄との共同設計だ。
まことが吉村事務所の所員として担当した物件(ホテルや集合住宅を含める)の数が23軒というから、これは相当な数といえる。それを黙認した吉村の度量の広さも相当のものだ。
その頃にまことが手がけた住宅が一般公開されているのをご存じだろうか。
場所は、長野県北安曇郡の安曇野ちひろ公園。内藤廣が設計した安曇野ちひろ美術館より100メートルほど離れた場所に建つ、ささやかな小屋がそれである。

奧村まこと設計:いわさきちひろ・安曇野ちひろ公園の「ちひろの黒姫山荘」

安曇野ちひろ公園内に復元された「ちひろの黒姫山荘」。協力:安曇野ちひろ美術館

これは、画家のいわさきちひろが1966年に長野県信濃町・黒姫高原で建てた山荘の復元で、公園では「ちひろの黒姫山荘」と呼ばれている(本物の黒姫山荘も現存しており、元の位置から少し離れた黒姫童話館という施設の南側に移築、公開されている)。
ちひろの自宅兼アトリエは練馬区下石神井。人の紹介で同じく練馬区在住のまことを知り、設計を依頼したというわけだ。
安曇野ちひろ美術館副館長・竹迫祐子の著書『ちひろを訪ねる旅』(新日本出版社)によれば、間取りや造りについてはまことが提案し、ポイントとなる部分の色はちひろが決めたという。完成後、ちひろはこの山荘をとても気に入り、夏や冬になるとこの山荘で周囲の景色を楽しみながら、創作活動に励んだようだ。
本物が現存しているにもかかわらず、わざわざレプリカが建てられるほどだから、ちひろにとっては、大事な場所だったのだろう。
そして、建築家・奥村まことを知るうえでも、実に興味深い建物なのだ。
次回、この黒姫山荘を詳しく紹介する。

(つづく)

(1)太陽熱で暖めた空気を床下のコンクリート蓄熱槽に送り込み、その放射熱で室内をくまなく暖める仕組み。びおソーラー・OMソーラー・そよ風などがある。

著者について

中村謙太郎

中村謙太郎なかむら・けんたろう
編集者・ライター
1969年生まれ。1992年武蔵野美術大学造形学部建築学科を卒業後、『住宅建築』編集部、『チルチンびと』編集部を経て、2014年独立。建築関連の編集業務の他、土壁の魅力を一人でも多くの方に知ってもらうべく、建築家の高橋昌巳、遠野未来とともに「まちなかで土壁の家をふやす会」を結成。関東近郊で土壁の見学会や勉強会を毎月開催中。

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住まい・暮らし・居場所––建築家・奥村まことの仕事について

人々の「暮らし」の様相が、その時代を象徴する風景となるとき、その暮らしがどのように作られたのか、想像したことがあるでしょうか。 時代ごとにあるべき「暮らし」を描き、美を添えてきた達人たち。彼らの仕事によって、時代はつくられたとも言えます。 では、「暮らしの達人」の仕事とはどのようなものなのか。 シリーズ第2回は、女性建築家の故・奥村まこと。その強烈な個性で多くの人に影響を与えた一方で、建築家としての人生はそれほど明らかにされていなかった。そんなまことを、住宅業界に長く携わる編集者・中村謙太郎が辿り、まことがもたらした「暮らしの時代」の輪郭を浮かび上がらせます。