<遠野便り>
馬たちとの暮らしから教わること
第10回
7月:ミクロの景色
夏至が過ぎ、森はますます緑が濃く、生命は虫たちも、鳥たちも、ヘビなど爬虫類も、カエルたち両生類も、ミミズや、カタツムリや、哺乳類たちも、ますます強度高く生きています。森にも、草原にも、田にも、畑にも生きているものたちの匂いと気配が充満しています。強度高く、というのは、言い換えれば、お互い、食べたり食べられたりがあちこちで繰り広げられていて、目を凝らして見れば、一見平和で豊かな風景のなかに相互に油断のならない命のやりとりが生起していて、そのような現象がやむことなく連続しているということです。生死がそこら中に充満していて、抽象的には多様な生命現象ともいえるでしょうが、個体のひとりひとり、つまり当事者にとってみれば生きるか死ぬかの、ぎりぎりの状況が繰り広げられている、というのが、いのちあふれる7月のミクロの景色です。
そんな風景の一部として、山里で田畑を耕して暮らす年配の人たちは、こうした命あふれる夏の季節、日の出のころから働き出し、暑い日中はできれば休んで、夕暮れふたたび野良仕事に勤しむというふうです。そして夜は7時か8時には寝てしまうというような生活リズムで暮らしている人が多いように思います。こういうジサマ、バサマたちが、野良仕事の合間に手にしているのはスマホではなくて、長年使いこんで手になじんだ鎌や鍬であり、世界へ向けた情報発信の代わりに、大地や草や作物との会話を日がな飽くことなく続けているのでした。
考えてみれば、7月の太陽は強烈だし、つきまとうアブやら何やらに悩まされつつも、慣れ親しんだ環境で野良仕事を続けられることは案外幸福なことかもしれません。なぜなら、自然に満ちたこの世界はいつも変化していて同一ということは決してありませんし、そうなると、観察すること、考えること、具体的に工夫すること、といったひと連なりの行為を、肉体労働と頭脳労働に分離することなく一連の作業として飽きることなく続けることができるからです。体の強靭性を保ちつつ、環境に自分の判断で働きかけ続けることができる、このようなタイプの労働は、現代の多くの都市的な生活スタイルからは失われていることかもしれません。