びおの珠玉記事

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「地震年表」と被災地視察から。

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから珠玉記事を再掲載しました。
(2011年05月11日の過去記事より再掲載)

東日本大震災の発生から2ヶ月。報道は原発事故やヒューマンドラマ的な話題、復興と政局が目につくようになってきました。この災害を引き起こしたものは他ならない「地震」だったのですが、マスメディアからは地震の形跡が薄れつつあるようにも思えます。
そんな折り、菅直人総理大臣の浜岡原発停止要請がありました。地元や産業界からも賛否の声があがっていますが、「いつか来るかもしれない地震」に備える、という点では大いに評価出来るものだといえます。

大地震の歴史

浜岡原発停止要請は、東海地震が近いうちに起こるであろう、という判断によるものです。しかし、日本で起こる可能性がある大地震は、決して東海地震だけではありません。
2000年から2009年に世界全体で起こったマグニチュード6以上の地震のうち、日本で起こったものの割合は20.5%です(H22版防災白書より)。
それに対し、日本の国土の面積は0.25%と、私たちはいかに地震の多いところに暮らしているかが、この数字にもあらわれています。

世界の震源分布とプレート

※H22年度版防災白書より

一方で、日本の中でも近年大地震に襲われていない地域も多々あり、「この辺は地震がないから大丈夫だよ」なんていう言葉を聴くこともあります。海溝型の地震に関しては、確かに起こる地域が限られています。しかし、地震学者の島村英紀氏の言葉にもあるように、内陸直下型地震はどこで起きるのか、いつ起こるのかは現在の学問ではわからないのです。東海地震に限らず、他の地域で地震が起こらないという保証はどこにもありません。

さまざまな記録をあたって、縄文時代からの大きな地震をリストアップしました。「え、こんなところで」というものもあるかもしれません。あらためて、地震はいつどこで起きるかわからないことを念頭に、建物の耐震化や避難経路・場所の確認、保険などの準備をすすめておきましょう。

表の色分けの意味:地震の痕跡 大震災 プレート境界の巨大地震
内陸・プレート内の大地震 その他の主な地震 気になる地震

縄文時代 6300年前 鹿児島県南方・竹島、硫黄島を外縁の一部とする鬼界カルデラの火山活動に伴う地震。
6000年前 長野県・阿久尻遺跡(茅野市)で、茅野断層の活動による地割れ確認。
以降、生活の痕跡がしばらく途絶える。

青森県・三内丸山遺跡(青森市)で、遺物や泥炭質粘度で埋積された谷縄文谷)から、砂脈(地震発生の証)を発見。
京都府・志高遺跡(舞鶴市)で、縄文前期前葉の地層を引き裂く砂脈発見。

5000年前 神奈川県・第一東海自動車道遺跡群(相模湾北岸)で、住居跡や土瀇とともに、地割れを発見。
長野県・荒神山遺跡(諏訪市)の住居跡で垂直方向に最大60㎝の変位。
4000年前 福井県・上兵庫東遺跡(坂井市)で砂脈。福井平野に地震発生の証。
3000年前 三重県・蔵田遺跡(津市)で、液状化現象の痕跡。鈴鹿山地東縁断層帯の活動。
2800年前

大阪府・耳原遺跡(茨木市)で、安威断層を調査、当時の活動確認。
大阪府・久宝寺遺跡(八尾市)、池島遺跡(東大阪市)、東新町遺跡(松原市)などからも地震の痕跡を発見。大阪平野が激しく揺れたことを示す。
宮城県・北目城跡(仙台市)より、晩期の地層に砂脈を発見。長町─利府線断層帯の最新活動に伴う可能性。
京都府・北白川上終町(京都市)にての花折断層の位置での道路工事で、晩期の地層の切断を発見。
京都府・北白川廃寺跡(京都市)で、晩期の地層に砂脈を発見。
7世紀後半~8世紀初頭、この地層の上に寺が建てられた。
京都府・京都大学北部構内遺跡(京都市)晩期の地層で多くの砂脈発見。

弥生時代 前期Ⅰ期 滋賀県・津田江湖底遺跡(草津市)、湯ノ部遺跡(野洲市)で砂脈発見。
中期前半
Ⅱ期
Ⅱ期~Ⅲ期初頭の地震痕跡から、この頃琵琶湖全体が激しく揺れた。
静岡県・原川遺跡(掛川市)で、砂脈発見。地震発生の痕跡。
滋賀県・針江浜遺跡(高島市)で湖岸沖を調査。現在の湖底より深さ約1mの位置に過去の陸地の存在が明らかに。地震により湖岸が水没。
滋賀県・正言寺遺跡(長浜市)で、Ⅲ期を含め前後の年代の地震跡を確認。
滋賀県・八夫遺跡(野洲市)で、大きな礫を多く含む地層の液状化を確認。
中期中頃
Ⅲ期
香川県・松林遺跡(高松市)で、砂礫層の液状化による噴礫発見。地震の証。
香川県・松林遺跡の噴礫

香川県・松林遺跡で発見された、砂礫層の液状化による噴礫(出典/高松市教育委員会)

中期後半
Ⅳ期
兵庫県・下内膳遺跡(洲本市)の方形周溝墓の墳丘と埋土に多くの砂脈。
後半Ⅴ期 神奈川県・二伝寺砦遺跡(藤沢市)、臼久保遺跡(茅ヶ崎市)で、弥生時代Ⅴ期の住居に、地滑りによる床面の食い違いが見られた。
兵庫県南部・野島断層(阪神・淡路大震災を起こした断層)調査にて、弥生時代後半Ⅴ期初めにも活動、大地震を起こしていたことがわかる。
福井県・泉田遺跡(福井市)で、砂脈を確認。祭祀行為の跡も。
徳島県・黒谷川宮ノ前遺跡(板野郡)、黒谷川頭遺跡(黒谷川郡)より砂脈。
古墳時代   大阪府・下田遺跡(堺市/銅色の銅鐸が発掘)で、多くの砂脈発見。
大阪府・志紀遺跡(八尾市)で水田の杭が切断され一斉に10㎝前後食い違う。弥生から古墳への時代の過度期に、大阪平野や四国が激しく揺れた証。
前期 奈良県・赤土山古墳(天理市)で、盛土が大きく滑り落ちた痕跡を発見。
大阪府・久宝寺遺跡(八尾市)でも、上記の地震の影響を受けた痕跡有り。
静岡県・坂尻遺跡(袋井市)で、上記同時代の地震の砂脈を数多く発見。
西暦400年前後に、奈良盆地・大阪平野と共に、東海地域も強く揺れている。
416年 大和河内地震 遠飛鳥宮(大和国/現・奈良県明日香村)で地震。規模不明。『日本書紀』に“地震”の記述。日本史上最初の地震の記録。
兵庫県・郡家遺跡(神戸市)の畝が最大20㎝食い違う。5世紀末~6世紀中頃までの地震の痕跡。
大阪府・新池遺跡(高槻市)で埴輪窯群発見。
世界初の地震計

132年、中国の張衡が世界で初めて発明した地震計「候風地動儀」。写真は複製品。(出典/国立科学博物館地震資料室)

後期

大阪層群に設置された埴輪窯のうち二基が、5世紀末~6世紀中頃の地滑りで滑り落ちていた。大阪平野北部の複数の遺跡からこの時期、小規模な地震の痕跡発見。
兵庫県・新方遺跡(神戸市)で、6世紀前半頃の小さな砂脈あり。
群馬県・三ツ寺Ⅱ遺跡(高崎市)で、堅穴式住居跡の床面の地割れから、3回の地震発生が明らかに。うち2回は榛名山噴火に伴う地震。

飛鳥時代 599年 大和国(現・奈良県)で地震。『日本書紀』に「地動、舎屋悉破、則令四方、 祭地震神」と、地震被害・祭祀行為が記述。日本の地震被害最初の記録。
日本書記

日本で初めて地震被害が記述された『日本書記』(江戸時代の活字本/東京国立博物館蔵)

679年 筑紫地震 九州北部(筑紫国/現・福岡県)で地震。水縄断層帯の最新活動。「地裂くる(地割れ)こと広さ二丈(6m)、長さ三千余丈(10m)。百姓の舎屋、村毎に多く仆れ壊れたり」と『日本書記』に記述。
684年 白鳳南海地震 土佐で津波により大きな被害。田園(約12km²)が海面下へ沈下。ほぼ同時期に、東南海・東海地震も発生。
701年 丹後国に地震 丹後地方(丹波国/現・京都府)で地震、若狭湾の冠島と沓島が海没したと伝えられる。
奈良 715年 遠江と三河に地震 山崩れで天竜川がせき止められ、数十日後に決壊。
734年 天平地震(五畿七道地震) 圧死者多数。「大地震、神倉崩れ、峯より火の玉海に飛ぶ」の記述あり(『熊野年代記』)。
744年 肥後国に地震 雷雨とともに激しい地震が襲う。
745年 美濃国に地震 美濃地方(美濃国/現・岐阜県、長野県)で地震。三昼夜続く。
平安時代 818年 北関東に地震 「相模、武蔵、下総、常陸、上野、下野等国、地震、山崩谷埋数里、圧死百姓不可勝計」の記述あり(『類聚国史』)。
830年 秋田・出羽に地震 東北地方(出羽国/現・秋田県)で地震。秋田城被害。
841年 長野県中部地域に地震(信濃国府を含める) 
糸魚川─静岡構造線断層帯に属する牛伏寺断層に地震の痕跡あり。
伊豆半島で地震 丹那断層の活動。上記の断層と同じく1000年間隔で活動。
863年 越中・越後地震 越中・越後地方(現・富山県、新潟県)で地震。
直江津付近にあった数個の小島が壊滅。
868年 播磨・山城地震 播磨国(現・兵庫県南西部)の中央に走る山崎断層帯が引き起こす。これ以降、地震への関心が高まる。
869年 三陸沖地震(貞観三陸津波) 溺死者1,000名。多賀城損壊。震源域は、岩手県沖~福島県沖(or茨城県沖)の、連動型超巨大地震との指摘有り。
878年 相模・武蔵地震 関東南部で地震。伊勢原断層の活動。
880年 出雲地震 中国地方(現・島根県)で地震。
887年 仁和南海地震 京都・摂津地方(現・京都府)で地震。
1096年 永長東海地震 畿内での大地震。大きな地震が6回続く。駿河から伊勢沿岸に津波が押し寄せた、南海トラフの東半分で発生した地震。
「仏神社舎百姓四百余流出」と記述(駿河国公文書)。
1099年 康和南海地震 奈良付近で発生。土佐国で千余町の田が海に沈む。
鎌倉時代 1185年 文治京都地震 法勝寺や宇治川の橋など損壊。余震が3ヶ月近く続く。
堅田断層が活動。鴨長明が『方丈記』で詳述。
1257年 正嘉地震 関東南部(現・神奈川県鎌倉周辺)で発生した激しい地震。
1293年 鎌倉大地震 鎌倉周辺で地震。関東で死者2万3,034人。余震多発。
相模トラフから発生したプレート境界の巨大地震の可能性が大きい。
1325年 琵琶湖周辺に地震 竹生島の一部が湖中に崩落。柳ヶ瀬断層の活動。
南北朝 1361年 正平(康安)南海地震 摂津・阿波・土佐で津波の大被害。これに対応する東海地震の痕跡を門沼遺跡にて確認。『太平記』に記述残る。
日本最古の津波碑

正平(康安)南海地震の被害者を供養する碑。日本最古の津波碑(徳島県・美波町)

戦国 1498年 明応地震(東南海・東海地震) 関東~紀伊半島の太平洋岸を、最大8mを超える津波が襲う。津波により、淡水湖の浜名湖(静岡県)の南側が侵食を受け、海と繋がる。
安土桃山 1586年 天正大地震(東海東山道地震、飛騨・美濃・近江地震)
中部地域~近畿東部での激しい地震。300軒余りの家屋が並ぶ城下町を埋めつくす。
1596年 別府湾に地震 地震で瓜生島と久光島の2つの島が沈んだとされる。
慶長伏見地震(慶長伏見大地震) 伏見城の天守閣や石垣が損壊、9月5日の発生後、余震は翌年春まで続いた。
江戸時代 1605年 慶長地震(東海・南海・東南海連動型地震) 関東から九州までの太平洋岸に津波、紀伊・阿波・土佐などで大きな被害。以降、東海地震発生に続いて南海地震が発生。発生の間隔は90~147年。
1611年 会津地震 会津の死者は、3,000人以上に及ぶ。
慶長三陸地震 三陸沿岸~北海道東岸にかけて大きな被害を生んだ、M8クラスの津波地震。
1646年 仙台に内陸性の地震
1662年 寛文近江・若狭地震(畿内・丹後・東海西部地震、寛文の琵琶湖西岸地震) 琵琶湖西岸帯が壊滅的被害。2段階(若狭湾の日向断層活動直後、滋賀県の花折断層が活動)に分かれる地震。
日向・大隅地震 日向灘(宮崎県東部沖合)の海底が震源と推定される、M7クラスの大地震。宮崎平野沿岸が水没。
1666年 越後高田地震 夕食準備時間帯での出火、行く手を遮る雪の壁、凶器となったつらら等が重なり、死者は1,400~1,500名に。
1683年 日光地震 関谷断層系の活動が推測されるM7クラスの地震。下野街道が全長6kmにわたり水没。不通となったことで、脇街道が発達した。
1703年 元禄関東地震 相模湾北部から南まで震源域が及んだM8.2の地震。
繰り返し発生する関東地震の中でも、大規模な地震。
1707年 宝永地震(東海・南海・東南海連動型地震) 南海トラフのほぼ全域で一気にプレートが破壊。関東から九州までの太平洋岸に津波が押し寄せる。この地震から49日後に富士山大噴火が起こり、火山灰が江戸に降下、半月降り続いたという。
1718年 長野県南部に地震 天竜川沿いに強い地震が発生。
1741年 北海道西南沖の大島に火山性地震
1766年 津軽地震 津軽山地西縁断層帯の活動から発生した可能性大。
沖積低地で顕著な液状化現象が見られた。『津軽藩史』が、「倒壊人家5490余、圧死者1000余人、焼死者300余人、死んだ馬440頭」と、被害の全体を克明に記録。
江戸時代 1771年 八重山地震津波 沖縄県石垣島を中心に大津波が発生、M7クラスの津波地震。死者・行方不明者12,000人。地震動による被害なし。
1792年 島原地震 長崎県・島原半島の地震による土砂崩れが、対岸の肥後藩の海岸を襲い大津波に。死者、島原藩で1万余、肥後藩で4千数百人を数える。この大惨事は、「島原大変肥後迷惑」と呼ばれた。
1799年 金沢地震 石川県・金沢城下を地震が直撃。弥生時代後期に活動を行なっていた森本断層から生じた地震と考えられる。
1804年 象潟地震 象潟(現・秋田県にかほ市)での、海岸に沿う活断層の活動によるM7.1の大地震。象潟付近の海岸で最大1.8mの地盤隆起。
象潟地震の被災地

「東の松原 西の象潟」と呼ばれた潟湖は、1804年の地震で海底が隆起、陸地化した。(出典/国土交通省 国土画像情報)

1819年 近江地震 濃尾平野から琵琶湖周辺を含めた広範囲での地震。
1828年 越後の三条地震 越後(現・新潟県)にて活断層から発生した内陸地震。信濃川に沿う沖積低地では、液状化現状発生。良寛和尚がこの惨事を目にし句を残す。
1830年 京都地震 京都北西部でM6.5の地震。死者280名。地震後も不作が続き、多くの餓死者を生む(「天宝の大飢饉」)。
1834年 石狩地震 北海道・石狩地域を襲った地震。札幌市北部の北海道大学内等、地震の痕跡が数多く発見されている。
1843年 十勝沖地震 北海道・十勝沖のプレート境界から発生した巨大地震。最大波高10mを超える津波が押し寄せた。
1847年 善光寺地震 長野盆地西縁断層帯の活動による地震。
善光寺の本尊御開帳の年と重なり、夥しい数の参拝客が巻き込まれて犠牲に。
1854年 伊賀上野地震 三重県・上野盆地を襲った地震。伊勢湾沿岸では四日市に被害が集中。奈良盆地の沖積低地も大きな被害を受ける。
安政東海地震 東海地域を中心とした太平洋沿岸が大津波に襲われる。特に伊豆から熊野にかけて大きな被害。「大阪版黒船騒ぎ」を起こしたロシア船ディアナ号が幕府との交渉中にこの地震に遭遇。その後の嵐で、海底へ沈没した。この間の日本人の救援活動に、乗船していたマホフ司祭長が感謝の念を回送(『日本旅行記』)している。
安政南海地震 紀伊・土佐などで津波により大きな被害(高さ三丈(9m)近い津波)。安政東海地震より、30時間の時間差で発生。
豊予海峡で地震 12月23日の東海地震、24日の南海地震に続き、26日に発生。わずか4日の間に3つの大きな地震が日本列島を襲った。
1855年 安政江戸地震 地盤の軟弱な下町を襲う。死者約1万人の多くは圧死。出火により翌日昼頃までに、2.2km²が焼け落ちる。
多色刷の「鯰絵」が爆発的な人気を呼ぶが、幕府が版木を没収。わずか3ヶ月で姿を消す。
1858年 飛越地震 富山・岐阜両県で激しい揺れ。急峻な常願寺川は、せき止められたが、2週間後の中規模地震により決壊。
明治時代 1872年 浜田地震 浜田県・出雲県(現・島根県)での地震。小さな地震が一週間続いた後に発生。地震の規模はM7.1、死者500人以上。
1891年 濃尾地震 10月28日、午前6時37分、岐阜・愛知両県で発生。M8.0の、内陸地震として最大規模の地震。死者7,273人、14万2000余の家屋が全壊。温見断層・根尾谷断層・梅原断層など、北西─南東方向に連なる濃尾断層帯が活動し、日本列島が80km近くにわたって切断。
1894年 庄内地震 山形県西部で地震。M7.0、県内の死者726人。多くの木造家屋が倒壊。夕食の仕度時間と重なり大火災も発生した。
1896年 明治三陸地震 東北地方三陸沿岸で発生した、M8.5前後の巨大地震。陸上で、わずか震度2~3の揺れが続いた35分後、三陸海岸に大きな津波が押し寄せる。満潮と重なり、岩手県沿岸を中心に1万戸近い家屋が流れ去る。死者約2万2,000人の大惨事に。
大正時代 1923年 大正関東地震(関東大震災) 
9月1日、午前11時58分44秒、相模湾内の海底を震源にM7.9規模の地震発生、死者・行方不明者10万5千余。昼食時と重なり、圧死などの14,000人以外は、火災による犠牲者。住家全潰は10万9千余、焼失家屋は21万2千余にのぼった。日本災害史上最大。
関東大震災の被害

関東大震災直後の東京・人形町付近(提供/野村 静、匠建築・既存建物耐震補強研究会)

昭和時代 1927年 北丹後地震 京都府北端(丹後半島)を、M7.3の地震が襲う。
1930年 北伊豆地震 箱根から中伊豆まで延びる北伊豆断層帯の活動により起こった、M7.3の地震。この年の2月中旬~6月末、伊豆半島東部の伊東市沖で地震が多発していた。
1931年 西埼玉地震 関東北部を中心に、M6.9の地震が発生。
1933年 昭和三陸地震 東北地方三陸沿岸で発生した、M8.1前後の巨大地震。地震から30分後に、大津波が発生。死者・不明者3,064人。
岩手県大船渡市の綾里湾で、最大波高28.7mを記録。家屋ほとんどがさらわれた田老町では、1958年、高さ7.7m・長さ1,350mの大防波堤を完成させた。
1943年 鳥取地震 鳥取をM7.2の地震が襲う。屋根が重く(積雪対策)、老朽化した建物が多かったため、圧死者が相次ぎ、死者1,083人・全壊家屋7,485軒に及ぶ大惨事となった。吉岡断層と鹿野断層の活動で生じた地震。
1944年 東南海地震 紀伊半島南東沖から駿河湾の手前まで、南海トラフのプレート境界に沿って岩盤の破壊が東に進んだ、M7.9の地震。
昭和時代 1945年 三河地震 愛知県南部で、横須賀断層と深溝断層の活動により発生した、M6.8の地震。死者1,961人。
1946年 昭和南海地震 和歌山県沖から四国沖で発生したM8.0の地震。
最大波高6.8mの津波によって、多くの命が奪われた。
1948年 福井地震 福井・石川両県で死者3,769人となった、M7.1の地震。梅雨の最中で、福井平野のほぼ全域で液状化現象が発生。
1949年 今市地震 今市町(現・栃木県日光市)で、M6.2とM6.4の地震が発生。山崩れの集中で290家屋が全壊。
1952年 十勝沖地震 十勝沖でM8.2の地震発生。北海道南東岸から三陸海岸に津波が押し寄せる。
断層

十勝沖地震で現れた断層

1959年 北海道東部・弟子屈町付近で地震 
地震の規模は、M6.3とM6.1。阿寒湖周辺に被害集中。
1960年 チリ地震による津波 南アメリカのチリ沖で、M9.5の超大型地震が発生。津波は22時間後に日本沿岸に到達。北海道から沖縄まで津波による死者・不明者は、142人にのぼった。
1964年 新潟地震 沖合20kmの海底で発生。M7.5。本震15分後から最大波高5mの津波来襲、新潟湾臨海地域の3分の2以上が水に覆われる。
津波は日本海の沿岸へ、島根県沖の隠岐島の水田を塩水が覆ったという。この地震は、液状化現象が近代都市に大きな被害を与えた最初の事例という点で、世界が注目した。
1965年 松代群発地震 長野県松代地域から震源域を広げた群発地震。最大M5.4(1966年4月5日)、全地震のエネルギーの総計はM 6.4相当。
有感地震は、62,821回。平均すると1日約27回の計算となる。
1978年 伊豆大島近海地震 2回のM4.9の地震の後、M7.0の地震が発生。
急峻な半島の地形が開発によって変化したことが被害を大きくする。
宮城県沖地震 M7.4の地震。丘陵地を開発・造成した新興住宅地で地盤と盛土の境界に沿って地盤が滑り動いて被害を生む。
1983年 日本海中部地震 男鹿半島沖で起こったM7.7の地震。死者104名のうち、100名が津波の犠牲者。日本海沿岸に最大波高7m近い津波が発生。地形に沿って14mの高さまで昇った津波を受けた地域もあった。
1984年 長野県西部地震 1976年からの群発性の地震終息後、1979年10月28日に御岳山が噴火。その5年後にM6.8の地震が発生。
平成時代 1993年 釧路沖地震 釧路市の南方約15kmを震源とするM7.5の地震。桂木・木場地域ではマンホール14基が最大1.5m抜け上がったという。 
北海道南西沖地震 渡島半島から西へ約60kmを震源とするM7.8の地震。死者・行方不明者230人と大きな被害を生む。激しい揺れからわずか5分後、津波の第一波が奥尻島を襲う。西海岸の藻内北方では、津波の高さが21mに達し、谷筋に沿って30m以上も遡上。
1995年 兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災) 1月17日、午前5時46分52秒、明石海峡の海底を震源に野島断層に沿って破壊が進んだM7.3の地震。死者6,434人を数えた。周期1~2秒の揺れ(キラーパルス)が岩盤破壊の進行方向に向かい、多くの建物と共鳴して大被害を招いた。都市化が進むまで湿地だった地域・埋立地域の被害が大きく、また「通電火災」による犠牲者も多くでた。
2000年 鳥取県西部地震 本震はM7.3。400軒近くが全壊した。堅固な木造住居の被害は少なかった。
2001年 芸予地震 本震M6.7の、フィリピン海プレート内の地震。1686年、1857年、1905年にも大きな地震が同地域で発生。
2003年 宮城県沖で地震 本震M 7.1の宮城県沖、太平洋プレート内の地震。
宮城県北部地震 仙台平野南部の地下で南北に延びる活断層による、M6.2の地震。
2004年 新潟県中越地震 68人が犠牲となったM6.8の地震。その後もM5.8以上の地震が5回続く。3日前の台風の降雨から、地滑りが相次ぐ。崩れた土砂が川を堰きとめ、天然の湖を形成、交通路が断たれ、多くの集落が孤立。
2005年 福岡県西方沖地震 本震はM7.0。警固断層帯北西部で発生、推定、約2m左横ずれ。
2007年 能登半島地震 石川県能登沖を震源としたM6.9の地震。
新潟県中越沖地震 柏崎市沖の海底の活断層から発生したM6.8の地震。東京電力・柏崎刈羽発電所では、3号機所内変圧器での火災、6号機での放射能を含む水漏れ、1~7号機の原子炉建屋オペレーティングフロアでの放射性物質を含む使用済燃料プール水等の溢水、原子炉建屋天井クレーンを走行させる動力を伝えるための継手部・全4ヶ所のうち、3ヶ所の破損を起こし、原発に係わる活断層の評価や安全管理について様々な問題が浮き彫りとなった。
2008年 茨城県沖で地震 同日M6.4、M6.3の地震後、M7.0の本震が発生。
岩手・宮城内陸地震 山崩れや地滑りを多発。死者・行方不明者は23人。
2009年 駿河湾で地震 M6.5。気象庁が史上初の東海地震観測情報を発表。
*東海地震=1944年の東南海地震、1946年の南海地震の際、駿河トラフ周辺部分の岩盤のみ、ずれずに残り、150年以上も岩盤がずれていない(地震が起こっていない)ことから、1976年、歪みの限界が提唱・推定され、体制が組まれることとなった。
沖縄本島近海で地震 沖縄本島近海を震源とする、M7.2の地震。
2011年 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災) 3月11日、午後2時46分、三陸沖を震源とする、M9.0の日本国内観測史上最大の地震。日本戦後最大の災害。必死の救援・復旧活動が、今も、続く。(死者・行方不明者24,829人/5月11日現在)

参考図書/『地震の日本史─大地は何を語るのか』(中公新書)『揺れる大地─日本列島の地震史』(同朋舎出版)寒川 旭著

被災地を訪れて

東日本大震災の被害を受けた宮城県石巻市・仙台市・名取市を訪問・視察を行いました。

石巻訪問記(2011/5/4)
びお編集人 小池一三

石巻の地元の人の案内で、武山倫さんとご一緒して、津波に襲われた石巻の各所を視察しました。その光景は、テレビで、新聞で、雑誌で、目にし、耳にしていることですが、それらから五感が知覚できること、想像力の及ぶところは、ほんの僅かなことだと痛感しました。

最初に訪問したのは、石巻の新港湾部にある製材工場、製紙工場などでした。
製紙工場あたりは、コンテナがグリコのおまけのおもちゃのように流されていて、コンテナを牽引するデーゼルが逆立ちしたまま放置されていました。再生紙用に集められた古紙が泥の上に散乱し、その夥しいまでのゴミの量と、腐臭に鼻が悲鳴をあげました。

案内いただいたのは、この一角にある大きな製材工場の代表者を務める方で、彼は、流された原木800本を、幾日も掛けて泥の中から救い出した人です。泥水の中に遺体が浮かんでいて、広島や長崎の被爆地に自分が立っているような思いをしながら、自ら鳶口(とびぐち)を手にし、原木 丸太を一本一本集めたのでした。その鳶口は、卸売市場でマグロ業者が用いる柄の短いもので、これが使いやすいのだと言っていました。頼れたのは重機ではなく、鳶口だったのですね。

原木 丸太
一本一本集めた原木 丸太


この工場には、皆川林野庁長官が先に訪問されていて、海辺に面した木造大断面集成材の建物が残っていたことに、たいそう感激されたという話でした。鉄骨の工場がぐにゃりと変形しているのと対比をなしていて、これが残ったため製材機械類が、かろうじて守られたという話でした。

東日本大震災で生き残った木造大断面集成材の建物
残っていた木造大断面集成材の建物
津波で倒れた工場
ぐにゃりと変形している鉄骨の工場


石巻は水産の街です。その工場やら、流通基地となっている一角を回りました。
ここでも破壊は凄まじく、道路沿いの瓦礫こそ撤去されたものの、打ち捨てられた車両の数々、看板類や大型冷凍庫などが混在しながら、あえていうなら鬱々としてありました。
呆然としながら思ったことは、ここで大勢の人が働いていたのだ、ということでした。
水産基地としては、私の知る限り、釧路のそれと匹敵する大きさです。
小さな卸問屋や梱包を扱う会社など、その雑多さは水産の街に特有のものですが、破壊が大きすぎて手を出せないのか、人の姿をほとんど見掛けませんでした。

ここに働いていた人は、ほとんど解雇されたといいます。
経営者たちが、津波に遭って最初に「経営判断」したことは、経営を放棄することでした。雇用を切るということは、即、経営が亡くなることでありますので・・・。それぞれに零細な水産関連会社が、給料を出し続けることはムリなことです。失業保険の適用を受ける方が実際的でありますが、人手を失った被災のあとは放置にまかせられ、音が消えた水産の街というものの不気味さは、言語に絶するものがありました。

今、東北には膨大な瓦礫があります。岩手県の推計では、今回の津波によって生じた災害廃棄物は、一般廃棄物の12年分に相当する580万トンもあるといいます。東北三県を合わせると、ものすごい量の「資源」がそこにあります。これを資源に変えるには、廃棄物を用途に合わせて分別することです。金属物はリサイクルに、コンクリートなどは地震によって生じた地盤沈下に、木片はチップにして、パルプやバイオマス、木繊維断熱材などにリサイクルします。

今回の訪問は、実は、この分別作業を、地域ごとに時限を設けた失業対策事業(雇用対策)にしてやってはどうか、という提案を行うべくやってきたのでした。瓦礫の撤去作業をボランティアに任せてやり切れるものではありません。住居地はともかく、生産の場所はなおさら困難なことです。

2年程度の時限にして、その間に、本格雇用できる事業所を整備します。、この廃棄物利用の中から新しい事業の誕生をはかり、それを根付かせることが復興の基礎条件になるのでは、と考えてのことでした。7万戸もの仮設住宅を造っても雇用がなければ地域は荒れます。ニューヨークの犯罪が減ったのは、雇用を条件づけたことでした。

わたしは、その木片利用に一つのアイデアを持っていて、石巻の工場は、そのポテンシャルを有していると考え、瓦礫の木片を用いなくてもやれることです。しかし、この地域の将来を考えると、瓦礫をどうするのかということが重くのしかかっており、それは瓦礫を資源に変えることなくしてありえないと思われました。そしてそれを雇用創出の機会にしてはどうか、というのが私の提案です。
話が大きいので、どこまでやれるか分かりませんが、今回の訪問で、その可能性を共有することはできました。来週、もう一度石巻を訪問します。

水産基地を見た後、津波で壊滅した町として知られる雄勝町を訪ねました。
雄勝町は、硯石や東京駅のスレート屋根の素材(この話はややこしい問題に発展しており、別にまた書きます)の産地として知られます。
石巻から北上川を遡り、途中で山越えして入ります。リアス式海岸に面した入り江の町です。
大型バスが津波で流され、3階建ての公民館の上に留っていました。役場も、学校もやられ、小さな建物は壊滅的に流され、茫漠とした光景が広がっていました。

大型バスが3階建ての公民館の上に


石巻の街で、ボランティアしている仙台の工務店、建築工房零の小野幸助さん一行と、偶然、お会いしました。小野さんの奮闘ぶりは、いろいろ聞いていて、その勇姿に接し、雄勝でのショックが、少し和らぎました。北九州の木島さんがいらした話や、町の工務店ネットのみなさんのカンパの話など、短い時間でしたが、お聞きすることができました。仲間の皆さんに、感謝の気持ちを伝えてほしいと言われました。

仙台・名取にて(2011/4/28)
びお編集長 佐塚昌則

4月28日、震災で大きな被害を受けた名取市閖上(ゆりあげ)地域を訪れました。
閖上は、仙台空港(仙台市ではなく、名取市にあります)の北東、名取川の河口南側に位置する港町です。今回の地震による津波で壊滅的な被害を受け、多くの方が亡くなりました。

津波で流された建物の跡
ほとんどの建物が、原形を留めずになくなっています。
津波で流された家の基礎
引きちぎられるようにして家が流されたことがわかります。
津波避難経路標識が津波で曲がっている
津波が来ることは当然想定されていた地域でしたが…
津波で流された船が建物の残骸に引っかかっている
電柱もひしゃげて倒れ、残った建物には船が引っかかっています。



大きな地図で見る
上の写真は、ちょうどこのあたり。

東日本大震災の瓦礫


海沿いには瓦礫が集積されています。この瓦礫をどう処理していくのかも、復興のテーマの一つです。

2時間ほど徒歩で視察をしましたが、閖上地区全体に、半壊、全壊の住宅や「遺体発見」と記された自動車、打ち上げられた船が無数に散らばっていました。見たこともない世界です。
災害から生き残った人々を襲う「サバイバーズ・ギルト」という現象があります。大きな災害の中、自分が生き残ってしまった、という罪悪感に襲われる、というものです。
地震の発生当日、遠方での傍観者でしかなかった自分は、サバイバーですらないのですが、被害を受けたこの地区をこうして無事で歩き、写真を撮ることを通じて、罪悪感にも似た、なんともざらついた気分がいつまでも離れませんでした。

津波によって浸水し、校舎が使えなくなっている閖上小学校を訪れました。

体育館に集められた遺品など


体育館には、津波で流された写真等の思い出の品物が集められています。一枚一枚丁寧に写真を探す人たちの姿には、サバイバーズ・ギルトを乗り越えて先に進んでいこうという力を感じました。先程の罪悪感が拭えないままに、写真を撮らせてもらいました。
小学校の校舎は一階が浸水し、泥にまみれたままの状態で校舎は使えず、無事だった児童たちは別の小学校に通っています。

名取市から場面を移します。仙台市は、沿岸部で大きな被害があったものの、東北新幹線も復旧し、仙台駅に降り立った時点では、駅舎に少々の被害があった他は、大きな被害がないように見えました。しかし、少し周囲を視察してみると、外壁が剥離したビルや道路の隆起・陥没があったり、一部の建築物では大きな被害も出ています。

仙台の地震の揺れによる被害


仙台市若林区にて。津波ではなく、揺れによる被害です。

今回は沿岸部中心の視察で、内陸部の地震による被害については十分な視察が出来ませんでした。
地震は、地盤、揺れの強さと周期、そして建物の耐震性能で、その被害が大きく変わります。
今回の災害の発端はやはり「地震」であったということ、そして内陸直下型地震はどこで起きるかわからないことに、あらためて備えが必要だと思うばかりです。

修復中の仙台駅


仙台駅にて。がんばろう東北。