びおの珠玉記事

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ニホンミツバチの島

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから珠玉記事を再掲載しました。
(2009年04月27日の過去記事より再掲載)

日本ミツバチ

ニホンミツバチだけの島

対馬は、ニホンミツバチだけが生息する島です。
対馬の集落の山裾に、対馬在来の蜂を飼うための蜂洞はちどうが置かれています。
対馬のミツバチは、『対馬記』(金沢文庫所収)によれば、山林に生息する蜂の巣を屋敷に移して飼うようになったのが始まりです。大和朝廷が成立する前の継体天皇在位(507~531年)の時代から、ということですので延々たるものです。
この島にはセイヨウミツバチはいません。ニホンミツバチ(和蜂)だけしかいません。
ニホンミツバチは、セイヨウミツバチと比べると、一群あたりの数が少なく、そのため採れるハチミツの量が少なく、農業としての養蜂ということでは不利です。けれども、ニホンミツバチは、幾つもの優れた特性を持っています。
ミツバチの巣にはダニが繁殖します。このため、農薬を投与して殺虫するのですが、ニホンミツバチからはダニがほとんど発見されません。それは、働き蜂はおたがいに毛づくろい(グルーミング)し合って、ダニを見つけるとかみ殺してしまうからです。働き蜂は、巣の入り口で羽根を震わせて、外の新鮮な空気を室内に送り込んだりします。さらに、水を口にふくんで、巣のなかに「打ち水」したり、ということも。
そんな習慣を持つニホンミツバチにとって、対馬の蜂洞は、その生態にふさわしい巣ということができます。
ミツバチの天敵といえば、オオスズメバチです。
オオスズメバチは、アジア固有のものです。セイヨウミツバチの原産地にはいませんので、彼らはオオスズメバチに対して無防備でした。数十匹のオオスズメバチに襲われると、なす術もなく2~3万匹もの群れが3~4時間で全滅されてしまいます。オオスズメバチは巣の中に侵入すると、巣のなかの幼虫やさなぎなども、自分たちの幼虫の餌にしてしまいます。
しかし、ニホンミツバチは、この大柄にして凶暴なオオスズメバチを、やっつけてしまう術を持っています。最初はセイヨウミツバチと同じように、たびたび酷い目に遭ったと思われますが、長い年月を掛けて、この天敵を撃退する方法を進化させました。
ニホンミツバチの巣にやってきたオオスズメバチは、巣の入り口でニホンミツバチを次々に噛み殺します。そうすると、ニホンミツバチは巣から出ないで、何日も巣の中に閉じこもります。しかし、オオスズメバチが巣に侵入したら、数百匹の働き蜂が群れて塊をつくり、その中にオオスズメバチを閉じ込めます。そして、熱を発生させて蒸し殺してしまいます。その発熱温度は48℃とされ、オオスズメバチの致死温度が44~46℃であることから、この温度差がものをいいます。おそらくニホンミツバチは、その発熱量にまで、みずから体温を高めたのだと思います。生物の進化、げに恐るべしというところです。
対馬の蜂洞は、そんなニホンミツバチが巣とした木の空洞に似せてつくられました。つまりそれは、彼らの巣を人工化したものでした。蜂洞には、けやき、たぶ、杉、松、はぜの木などが用いられます。特にはぜの木の蜂洞を好むといわれます。

蜂洞

春先から晩秋まで、この蜂洞の周りをハチが飛び交い、働き蜂が、四季折々に咲く花々から蜜を集めます。養蜂家は、レンゲならレンゲを追って日本中を移動しますが、しかし対馬では、蜜が豊富な花木が豊かに自生しているので、その必要がありません。対馬の花木にとってもハチは欠かせない存在で、対馬在住のハチは、自生する花木を飛び回って受粉する役目を負っているのです。
対馬の採蜜は、年一回に限られています。貯蜜期間が長いので、十分に熟成されます。
対馬のハチミツが、濃厚で美味なのは、この理由によります。セイヨウミツバチの養蜂でみられる、ダニを駆除するための農薬が用いられていないことも安心できます。
この対馬のハチミツを推進しているのは、対馬市ニホンミツバチ部会で、その事務所は対馬森林組合に置かれています。森林組合がハチミツに取り組むというのは、奇異なことと思われるかも知れません。けれど、対馬の山から始まった養蜂ということを考えると、むしろ自然な成り行きだと、わたしには思われました。
扇組合長は、ハチミツの話になると顔つきが一変します。俄然、話がイキイキします。ここまで組合長が惚れ込むハチミツとはいかほどのものか、と試飲したら、それは今までに味わったことのないものでした。濃密であってさっぱりした味わいというか、富山氷見港のブリや、青森大間の本マグロでいわれる、脂は乗っているけれどさっぱりしている、ということにどこか通じるものがあります。
試飲していたら、扇組合長はこちらの口元をじっと見て、息を詰めて反応をうかがいます。
「うん、いけますね!」
とわたしが言ったら、厳つい感じの組合長が、破顔一笑されました。その豪快なこと。
「対馬の山の豊かさが、このハチミツに詰まっています。対馬の木を紹介するためにも、このミツバチを多くの人に知ってもらうといいですね」
と申し上げたら、扇組合長はうんうんと、首を大きくタテに振られたのでした。

対馬蜂蜜

対馬蜂蜜
対馬市ニホンミツバチ部会
長崎県対馬市厳原町南室22-1
対馬森林組合内
tel:0920-52-2677
fax:0920-52-2692

セイヨウミツバチと比較すると高いと思う人がいるかも知れませんが、とても手間が掛かっており、モノを知っている人ならお値打ち価格とみていただけることでしょう。

ツシマヤマネコの島

対馬は、南北82キロメートル、東西18キロメートル、面積708平方キロメートルの島です。沖縄本島、佐渡島、奄美大島に次ぐ4番目の大きさで、対馬の北西は、朝鮮半島まで50キロメートルの距離しかありません。福岡や長崎の方が遠いのです。
地質時代の対馬は、九州と大陸を結ぶ「陸橋」でした。この「陸橋」は沈降隆起を繰り返し、やがて分離独立して、今の対馬が形成されました。
対馬の生物相が他に例をみない複雑な様相を示すのは、このことによります。つまり、対馬は玄界灘に浮かぶ孤島ですが、北方系、大陸系、日本系が混成した島なのです。南米のギアナ高地に行ったときに、あそこの生物種が特殊なのは、古生期に、テーブルマウンテンに残された生物の子孫だから、という話を聞きましたが、対馬の場合は、つまり島に取り残され、生き残った生物の子孫ということができます。
さらには、対馬の北側には対馬暖流が、南側には対馬寒流が流れていて、それが複雑な地形と相まって、対馬の独得な生態を育んだのだと思います。

なかでもツシマヤマネコは、大陸と接点を持つ動物と言われます。このネコは、対馬にだけ生息するネコで、約10万年前に、陸続きだった大陸からやってきた「落とし猫」と言われています。ベンガルヤマネコの亜種とされ、1971年に国の天然記念物に指定されています。
ベンガルヤマネコの棲息地は、森林や熱帯雨林の広がる低地ないし山地とされます。3000メートル級の高地で目撃されたこともあるそうです。
日本に分布するヤマネコ類は、対馬のツシマヤマネコと、西表島のイリオモテヤマネコの2種のみです。ツシマヤマネコは、毛皮はツシマテンに譲りますが、肉はおいしく、かつて対馬には、ヤマネコ専門の猟師もいました。
対馬のことを書いた昔の本を読むと、このあたり結構大らかに書かれています。島民は鶏小屋をヤマネコに襲われたりして、ヤマネコに悪感情を持つ人が少なくありませんでした。戦後、原生林が伐採されて杉や檜が植林され、また山を崩して田畑がつくられたりして、生息環境が悪化しました。さらに交通事故に遭ったりして、1960年代に250~300頭確認されたものが、80~100頭まで減少するようになりました。
1994年に環境省は、このネコを「国内希少野生動物種」に指定し、最も絶滅の恐れが高い「絶滅危惧ⅠA類」に分類しました。日本の哺乳類のなかでは、日本カワウソの次に危険な状態に置かれているそうです。環境省は、種の保存をはかるため、人工増殖に取り組み、福岡市動物園では捕獲したヤマネコ5頭を飼育し、繁殖させています。
今回の訪問では、残念ながらツシマヤマネコを見ることができませんでした。
夜行性で、極めて用心深いネコなので、そう簡単に姿を見せてくれるものではありませんが、体長70~80cmにも達するネコだそうです。想像力をつよく掻き立てられます。
ご案内いただいた林業公社の狩野さんは、イリオモテヤマネコ(沖縄西表島)に比べると、こちらの方が、表情が柔らかくてやさしい、といわれました。それをいう狩野さんは、対馬の人間が持つやさしさを語っているように聞こえました。

照葉樹林の島 古代の森

今から約6000年前までは、オカガシ・タブ・シイなどの樹木が、西日本に広がっていました。その生き残りの照葉樹林の原生林が、対馬のあちらこちらに見られます。

対馬の照葉樹林

竜良山原生林、神崎半島、有明山、白岳原生林、紺青岳原生林、榎島原生林、神山原生林、御岳原生林などは、まさに古代の森というべきで、規模は縮小の一途をたどっているとはいえ、今も古代の森を彷彿とさせるものが残っていて、原始、日本はこういう森に覆われていたのでは、と思わせます。
今回の対馬訪問では、竜良山たてらさん原生林(80ha)を遠望したのみでしたが、伊藤秀三長崎大学名誉教授によると、竜良山の海抜350メートルあたりで、照葉樹林帯と岩角地植生の二つの植生に大別されるそうです。
照葉樹林帯には、ツバキの巨木が林立し、ウラジオガシやイスノキなどのスダジイ林が広がっているそうで、スダジイの根元には四方に、人の背を超える板根が認められるとのこと。もしそれが里地にあれば、一本だけで天然記念物に値する巨木が群生しているのが竜良山だそうです。
スダジイ林域は、巨木の枝の茂りが太陽の光を遮断して、静かで薄暗いのが特徴ですが、林床は下草が少なく歩きやすいとのこと。これは奈良県の吉野山に自生するツバキ林に入った時に体験していて、針葉樹や広葉樹の林内と違っています。
スダジイの老大木が台風などによって倒れたりすると、そこに林冠ギャップ(すきま)が生じます。陽光が差し込み、そこだけポッカリと明るい空間が生じて、好陽性の植物が生育します。その部分の林冠が閉じるまでには、約100年の歳月を要するそうです。
竜良山域にあるような、緩やかな斜面地や平地にある照葉樹林は、農耕地の開発の対象にされて、ほとんど失われています。対馬の原生林は極めて貴重とされるユエンです。

伊藤秀三さんは、「我々の遠い祖先が日本列島に足を踏み入れたときに見たであろう原植生」の姿がここにあるといいます。
「現代人は、貝塚をみて古代人の生活をしることができる。同じように龍良山の原生林をみれば、古代人の原環境を知ることができる」点において、それは「第一級の天然記念物であり、文化財」だといいます。
竜良山の岩角地には、樹木は生えません。低木と草本が群落をみせます。海抜350mあたりからアカガシ原生林が顔をみせます。樹高は高度を増すにしたがって次第に低くなり、山頂近くでは8メートル程度です。
山頂付近に、大陸系の植物、チョウセンヤマツツジ、ゲンカイツツジ、ハクウンキスゲなどが見られるのも一つの特長です。また、モミ、カヤなどの針葉樹や、コハウチワカエデなどの落葉樹、イワヒバ群落などが見られます。

対馬の原生林については、水越武さんの写真集『対馬――照葉樹林の四季』(発売元:地方小出版流通センター)が圧巻です。伊藤秀三さんの原稿も載せられていて、対馬の魅力が十分に伝わる好著です。

対州檜(たいしゅうひ)が茂る、今の森。

対馬は、照葉樹林が広がる古代の森がある一方、戦後植林による今の森があります。
民俗学者宮本常一が、やがて対馬は「林業王国」になると言った森です。
対馬の森林率は89%ですが、全体の36%を人工林が占めています。針葉樹の植林が、対馬の環境を破壊したといわれます。それは対馬に限らず、日本中の樹生環境を一変させた原因といってよいでしょう。それはまた、農業が環境を破壊したことに通じていて、人類そのものが問われていることです。
そのような原罪を人類は背負っています。地球環境の破壊が進み、ようやく人類は自己存在の持つ問題性に気づきました。対馬にあるのは、壊された自然の姿でありますが、それを少しでもよくするように尽くさなければなりません。
京都大学名誉教授の竹内典之さんは、人工林を放置し、荒れるに任せているのは「約束違反だ」といいます。

対州檜

対州檜

日本の人工林は、密植して間伐する方式です。日本の人工林は、多数の苗木を一斉に植え、生長に合わせて必要な手を掛けることでかたちづくられました。フィンランドの森が1ha当り2000の苗を植えるのに対し、こちらは3000本植えました。吉野などにみられるように、1万本植えた所もあります。仮に3000本として、1坪に1本の割合です。70年後に伐採する時には、これを600本まで減らしますので、木材となる本数はフィンランドと大差ありません。
しかし、植林の数が多い分だけ間伐材が多く発生します。もし間伐をやらず、密植した状態のままだと、木は痩せ、線香林になります。竹内さんは、この人工林の放置を「約束違反だ」というのです。自分が植えた木でなくても、それを継いだ以上、間伐し、山を手入れするのは義務だといいます。森林は、鉱物資源や化石資源とは異なり、絶えざる更新によって、再生可能な資源です。
日本の木材産地に伝えられる木曾式伐採法や、明治時代にまとめられた『吉野林業全書』にみられるような伝統的な育林作業の方法は、環境に与えるダメージを抑制するという点で、世界の木材伐採史に特筆されるべき事蹟といえますが、今、日本の各地で進んでいる事態は、その技術の放棄であり、更新され、再生産される山の不在です。
対馬の林業は、日本で初めて林業公社が誕生した土地ということもあり、意欲を持って取り組まれましたが、木材単価の厳しさは同様に受け、林業の歴史が浅いこともあり、古くからある林産地以上に多難でありました。
日本の山は、政府の森林施策がまったく有効に作用せず、補助金行政に依存する体質を囲い、経営として成り立っておらず、長期的な森林経営のビジョンを打ち出せないでいます。この点において、対馬も例外ではありません。
今、日本各地の山は悲鳴を上げています。きちんと山が経営されるようになるには、川下の町の協力が必要であり、そしてそれは、実は、川下の町自体の存亡にかかわる環境問題でもあります。そういう考えに立って進められたのが、近くの山の木で家をつくる運動でした。この運動は、1999年に開始されましたが、山からではなく、町側から始まった点に一大特徴があります。
長崎市内のモデル住宅に、対馬の対州檜を用いる今回の取り組みは、この大きな流れを受けてのものであり、対馬の林業がイキイキするには、対馬の人工林が更新、再生されるための「需要の集約」が必要です。そして、恒常的な取引が行われるようになると、原木を出しているやり方を改め、対馬で製材し、乾燥させ、プレカットして都市部に送り出すことが可能になります。対馬の長期的な森林経営のビジョンを成り立たせる前提条件は、一に掛かって、都市部での「需要の集約」にあるといえるのです。