パリのかくれた鉄道遺産
ところかわれば
| 森弘子
花の都とよばれるパリ。シャンゼリゼ大通りやルーブル美術館など、観光名所があり華やかなイメージがありますが、一体どこからどこまでが“パリ”と言えるのでしょうか? 答えは意外と明確で、1から20まである行政区でパリ(正確にはパリ市)が構成されていて、周縁部はBoulevard périphérique de Paris(パリ環状高速道路)に囲まれています。ブルヴァール・ペリフェリック・ドゥ・パリ、通称ペリフは1956年に建設が開始されました。実は環状道路が建設されるその前からも、パリは鉄道に縁取られて周縁部がはっきりとしていました。
鉄道はla Petite Ceinture(ラ・プティット・サンテュール、小さなベルト・環状の意)と呼ばれ、パリをぐるっと囲んでいました。現在の環状道路とほぼ平行に走っていますが、それよりも少し内側に線路が敷かれていました。面白いのが、そのほとんどが使われなくなった現在もそのまま残されていること。2021年7月の記事でご紹介したla REcyclerieは、このla Petite Ceintureの駅、”Bd.Ornano”駅のコンバージョンになります。
鉄道が建設されたのは19世紀後半、鉄道技術が発展した時代。それまでの動物による運搬から替えるという理由はもちろんのこと、戦争に備えた軍事的防衛のため、パリを囲い、パリを“閉じる”ものが必要だったこともありました。
最初の線路は1851年12月にセーヌ川右岸側に敷かれました。その次にオートゥイユ線(パリ西部)が1854年に、左岸側は1867年パリ万博のために建設された路線と同時に開通、1869年に右岸側の線路とオートゥイユ線が接続され、全長32kmのla Petite Ceintureが完成しました。
しかし、当初好調だった鉄道もその寿命は意外にも短く、貨物・旅客共にピークの1889年を境に、20世紀に入りメトロが開通したため利用客が激減、1934年にオートゥイユ線を除き旅客サービスは終了、貨物専用となりました。1970年代、パリ市内の大規模な産業施設が相次いで閉鎖となり、それに伴い貨物輸送が減少、1993年に北部の一部の区間が貨物用に、西部の一部の区間が現在のRER C線として利用されているのみで、ほぼ全体が廃線となりました。
その後線路跡は長い間都会の忘れられた荒地となっていました。線路自体はSNCF(フランス国有鉄道)が、駅はSNCF、パリ市、民間人が所有しています。駅は前述したように複合文化施設になっていたり、レストランにコンバージョンされています。線路は多くが放棄されていますが、遊歩道になっている部分もあります。
廃線跡は、鉄道が通っていないことや、人間が利用しないことから比較的空間が守られ、動植物が再び生息し、新しいパリの自然景観を形成しています。線路自体はほとんどの区間で切れずに現在も連続しているため、線路に隣接している森林や公園と合わせて、広大な生態学的ネットワークとなっています。現在では、その中で植物や動物の種の繁殖が“パリ生物多様性計画”を通して促進されています。ほとんどの部分が街に溶け込んでおらず、高架であったりトンネルであったりとアクセスが悪いことも特別な守られた空間を形成し、動植物を守る要因になっています。
2006年にはSNCFがパリ市と、la Petite Ceintureの今後の利用と将来計画について共同で取り組むことを決定、2007年から2013年にかけて、様々なアクションや地域の発展がなされ、12,16区では自然遊歩道が、15区ではプロムナードが、14,18区では庭園が整備されました。これらのアクションは再雇用を促進し、同時に環境問題にも取り組むことが期待されています。
Google mapなどでパリを見てみると、環状道路の少し内側に線路がぐるっと回っているのがわかります。(特に南部、東部はわかりやすい) パリを訪れる際には、周縁部まで少し足を伸ばして、パリの自然豊かな秘境をのぞいてみてはいかがでしょうか。