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藝大建築科って
小さな建築学校なんだ

学部の4年間が藝大建築教育だ、と秋山さんはいいます。そこでどんな教育が行われていたのか。いよいよ、その実態を聞きます。
芸大建築科工程表

東京藝術大学建築科教室 昭和40年度設計製図計画表
http://landship.sub.jp/stocktaking/archives/004564.htmlより

秋山 藝大建築の、学部1年から4年の凄さっていうのはね、今思い出しても凄いと思うのはね……。1年、2年、3年、4年と課題があると、全学年の課題の講評会を、一度に教室前の廊下でやるんだよね。朝から夕方まで、昼を挟んで。まず1年生の課題が壁にズラーッと貼られてね。

佐塚 全員分。

秋山 まあ、全員といっても、50人だからね。それで、吉村順三、天野太郎、山本学治他の教授陣が、一つひとつ講評するんですよ。生徒に説明させて、それはこうじゃないのか、こうしたほうがいいんじゃないのかと。それを、1年から4年までの生徒全員が聞くんですよ。それはね、ある意味で藝大の建築科の華みたいな時間ですよね。1年生の何にもできないやつも、そこで発表しなきゃいけないし、それが全生徒、全先生に見られて、評価を受ける。

佐塚 1年生はきついですね。

秋山 皆、きついよ。上級生は上級生なりに……。それに1年生は、先生がタバコの灰を下に落とさないように、灰皿を抱えておるのが役割だったりしてね。

佐塚 (笑)

秋山 課題をこなすのに、上級生になると1年生を子分みたいに使うわけですよ。1年生2年生は、自分の課題よりも一生懸命、上級生の課題をやらされるわけ。

佐塚 いわゆる体育会系のノリですか。

秋山 とも違うよね。別に皆、考えてることはバラバラなんだから。それで、卒業制作なんていったら、もっと大規模でさ。4年間の半分ぐらい、人のことをやってる。だんだん特定の上級生の専属みたいになってさ。僕は1年上の遠藤っていう奴の専属みたいになって。彼の家で徹夜して飯食ったりしてさ。

佐塚 濃い関係が出来上がるわけですね。

秋山 そう、生徒同士の上下の関係って、英国のパブリックスクールみたいなところがあって、上級生が、「これからウンコするから、便座を温めておけ」なんていいそうなんですよ。

佐塚 (爆笑)

秋山 それであっために行くとかさあ(笑)。本当に、パブリックスクールというのが適当じゃないかなあ。藝大は大学じゃないし。大学という名前がついたのは戦後であって、あくまでも専門学校、エコール・デ・ボザールだからさあ。学校の中に、先生と生徒、上級生と下級生がいて、皆、設計を勉強している。そういうものだよなあ。そういう付合いのことも、随分勉強になった。今でも、ひとつの手法やら何やら考える時に、半世紀も前にならったことを思い起こしたりしますね。

佐塚 はあ〜(感心のため息)

秋山 例えば、吉村順三に接するということは、課題の講評の時と、授業しかないわけですね。1年だか2年に吉村の「建築概論」みたいな講義があるんだけど……これがすごいんだな。学校自体が設計教育プロパーなんだから、吉村の講義自体もプラクティカルな設計教育。今でもよく覚えているが、こんなことを教えてくれるんだ。

「課題の検討の最終段階で、君は○□△の三案を考えたとする。そして○を選んで、図面を描きはじめる。フィニッシュに向かおうとする。しかし途中で行き詰まった時、□の方良かったんじゃないかと思う。しかし、そこで変更しちゃダメなんだ……。○で続けていかなくちゃ。課題には締切がある。途中で変更したら間に合わない。」

こんな実践的な教育をする学校なんて、そうそうないと思うよ。

佐塚 なんだか身に沁みる話です。自分も含めていろんな人に聞かせてあげたいです。ところで、秋山さんも逆に、上級生になったら子分がついたわけですね。

秋山 そうそう。そうやってみんな鍛え、鍛えられていくんですね。その辺が、みんなわかってないんだと思うんですよ。パブリックスクール的な教育環境の中に、先生と生徒の関係だけじゃなくて、生徒同士の関係があるわけで。

佐塚 藝大建築科が「大学じゃない」、とおっしゃるのは、そういうことでもあるんですね。

秋山 大学じゃないよ。だから俺は、なるべく学生って書かないようにしてる、学生って書いたことないと思うな。生徒、って書いてる。他の学校は知らないし、今はどうか知りませんけど、独特のものじゃないかな。

佐塚 そうなんですね。

秋山 まあ絵の試験があるっていったって、いろいろですよ。黒川なんか下手くそだったしね(笑)。それで、4年になって、卒業制作に何をやるか、っていうようなときに、僕にとって、というか意識的に建築のことを多く考えていたヤツにショックだったのは、ジェームス・スターリングというイギリスの建築家の登場なんですよ。レスター大学工学部校舎ってのが出たときにね、「なんじゃこりゃ〜?」って、ホントに思ったの。

秋山さんに衝撃を与えたジェームス・スターリングの「レスター大学工学部校舎」
『国際建築』1965年1月号(美術出版社)に掲載

佐塚 それはどういうショックだったんですか?

秋山 ものの作り方が、ホントに予定調和的じゃないんだよ。階段教室があると、階段教室そのものが突っ込んでるとか。機能がむき出しでくっついてるんだよね。これを見たらね、やる気なくしちゃって。卒業制作で進めようとしていたことがバカバカしくなっちゃって。それで、親しかった大行に、「お前、こんなものが出てきたのに、まだそんな卒業制作をやるのか」なんて言ったりして、やっぱり生意気というか(笑)。

佐塚 卒業制作は、ずいぶん時間がかかったと伺っていますが。

秋山 結局、3年かかりました(笑)。みんなに手伝ってもらって、やっと卒業したって感じだよ。そう、同級生達「共に学んだ人たち」に助けられたんだよ。

佐塚 卒業してもパブリックスクールが続くという。でも、3年はやはり長いほうですよね?

秋山 なんだろう、自分をいじめるようになってしまったんだよね。ノイローゼですね。

佐塚 それほど、スターリングの建築の出会いに揺さぶられてしまったということですか。

秋山 これじゃだめだ、っていうことに陥っちゃったんだ。これじゃだめだ病になっちゃってね、もっともっと高みのことを考えないといけないんだってね。「哲学」の方に傾いてしまったんだ、俺は。

スゴイものに触れた時、人は前にも後ろにも進めなくなってしまうことがあります。秋山さんにとって、スターリングの建築は、まさにそういう存在だったようです。ここからどう脱出したのか? 卒業制作はどうなるのか?