まちの中の建築スケッチ

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伊能忠敬旧宅——小江戸の町並み

今年は、この5月が伊能忠敬没後200年ということで、あちこちでの展覧会やイベントなどが計画されているようである。伊能忠敬は50歳で天文暦学に目覚め、江戸に出て学びを始めるとその思いが募り、測量という天職に出会った。北海道・東北を歩いて見事な地図を作成すると、幕府直轄事業を拝命することとなり、さらにその後12年にわたり日本全土を四千万歩(井上ひさしの小説に言う)歩いて測量した。73歳で没した3年後に「大日本沿海輿地全図」が完成した。
佐原を訪れた。伊能忠敬が17歳で伊能家に婿養子となり50歳まで過ごした村である。水運の中心で江戸の台所と呼ばれ当時で人口5000を誇るだけあって、今も佐原の市街を通る街道には明治の建物も残っていて趣がある。忠敬橋と名付けられた利根の支流小野川と交差するあたりが重要伝統建築物群保存地区に選定され、特に小野川の両側の家並みは心地よい空間になっている。
まず、伊能忠敬記念館に入って、業績を改めて一覧し、そのパワフルな成果に驚いた。大・中・小とある日本地図の伊能図を中心に、大小さまざまな測量機器も見て、その生きざまを想像するだけで、定年後の生活を送る者は勇気づけられる。地図の中の三陸海岸には、小さな文字の「唐丹」や「吉濱」も見つけた。

伊能忠敬、佐原

忠敬が盛り立てて名主も拝命したという伊能家は、記念館から樋橋(農業用水が橋下に通っておりオーバーフローするときに小野川にあふれ出ることから「じゃじゃ橋」と呼ばれている)を渡った向かいにある。表は土間が店になっているが、裏庭に住宅が棟続きに展開し書院の脇を、用水路が流れている。「この一歩から」の測量碑があり、その脇に立って書院をスケッチした。背景に佐原の町並みを意識できる。
おそらくは、仕事の合間の多くの時間をこの書院で過ごし、古今の書に親しんだのであろう。きっと家業を引退の後の自分の夢を描いていたに違いないと想像するのも楽しい。手前の柿の木の新緑が美しかった。
川沿いのおしゃれなレストランで食事をし、伊能家の菩提寺である妙光山観福寺まで、小野川に沿って少々足を延ばす。ちょうど牡丹が花盛りで背景の山の新緑に鮮やかだった。890年開基という真言宗の寺で、山門をくぐって石段を登ると本堂・観音堂・鐘楼を初めなかなかの建築群がある。江戸で亡くなったので遺骨は浅草の寺にあるというが、伊能忠敬の墓にも参ることが出来た。

著者について

神田順

神田順かんだじゅん
1947年岐阜県生まれ。東京大学建築学科大学院修士修了。エディンバラ大学PhD取得。竹中工務店にて構造設計の実務経験の後、1980年より東京大学工学部助教授のち教授。1999年より新領域創成科学研究科社会文化環境学教授。2012年より日本大学理工学部建築学科教授。著書に『安全な建物とは何か』(技術評論社)、『建築構造計画概論』(共立出版)など。