阿佐ヶ谷住宅

農的な暮らしがつなぐ「私たちの都市計画」

「ていねいな暮らし」に憧れる向きが強まる中で、自然の恵みを実感できる農業に関心を寄せる人たちが増えてきました。積極的に園芸やベランダ菜園、地方移住などして自給自足を志向する20-30代の若者も目立ちます。
植物を育て、収穫物を共有することで、まちや人とのつながりを築いている人びとや活動があります。そこにある工夫や意味を探る中で、ゆたかな生活の輪をつなぎ、一人ひとりの生活から紡ぐ「都市計画」のありようも見えてきました。

文・写真=江口亜維子

Vol.2  阿佐ヶ谷住宅で体験した
「えたいの知れない緑の空間」

建築家の故・津端修一さんが手がけた団地のひとつである阿佐ヶ谷住宅(東京都杉並区)に、江口さんは住まい手として数年間を過ごしました。その頃に感じた、コモンスペースのあり方が忘れられず、今は研究者として、どのようにしたら阿佐ヶ谷住宅のコモンスペースのように公と私をつなぐ「場」をつくれるのか、探索しています。そんな江口さん自身の経験を紐解いてもらいました。

津端修一さんの仕事に触れる

2006年から2012年までの6年間、私は、建築家の故・津端修一さんが全体計画に携わった阿佐ヶ谷住宅という団地で暮らしました。阿佐ヶ谷住宅は、日本住宅公団設立初期に建てられたコモンスペースが意図的に計画された分譲住宅団地です。350戸のうち、118戸が3〜4階建ての中層棟タイプ、232戸がテラスハウスと呼ばれるいわゆる長屋タイプの棟で構成され、テラスハウスのうち172戸は前川國男建築設計事務所が公団のプロトタイプとして設計したものでした。1958年に入居が始まり、2013年に再開発のため、解体されました。

阿佐ヶ谷住宅全体図

阿佐ヶ谷住宅全体図

敷地内をぐるりと巡る公道以外はほとんどが土面で、住棟間の緑地は“コモン”とよばれていました。津端さんは、これを私有地でもない、公共のものでもない「えたいの知れない緑の空間」と表現し、ここで「市民たちによる新しい魅力的な社会関係が創られるだろうと期待してきた」と記しています1

私が初めて、阿佐ヶ谷住宅を訪れたのは2006年の初春でした。全体をゆったりとおおう、どこの国なのか、いつの時代なのか、よくわからない、それこそ「えたいの知れない」雰囲気に心を奪われました。帰り道に夢見心地のまま立ち寄った不動産屋でちょうどリリースされたばかりの空き物件を見つけ、再開発で立ち退きになるまでの6年間を暮らしました。
でも実は、阿佐ヶ谷住宅の良さを深く実感するようになったのは、皮肉にも最後の1年。2011年3月に起きた東日本大震災がきっかけでした。震災の直後、不安な日々を過ごしていましたが、阿佐ヶ谷住宅では、ゆるいご近所付き合いがあり、「大丈夫でしたか?」と声をかけあったり、品薄で買えなかった生活必需品を近所の人が分けてくれたりしました。それぞれのやりとりは小さなものでしたが、ここで得られた安心感はとても大きいものでした。

コモンを介したご近所さんとの交流

コモン内の各戸までの道は、人がひとり歩けるほどの幅でコンクリート舗装された小径こみちでした。すれ違うときには、どちらかが道をゆずらなければいけないので、否応なしに挨拶を交わすことになります。それは、普段は意識しないほどのささやかな関係でしたが、震災直後の不安な精神の中では、心の支えになり、顔を知っている「ご近所さん」のありがたさを実感しました。

阿佐ヶ谷住宅

一人歩ける程度の道幅の小径

コモンには、計画された樹木以外に、住民たちが思い思いに植物を植え、それぞれが管理をしていました。その中には、梅、夏みかんなど実のなる木もありました。私も、梅酒をつけたり、ご近所さんとプラムを収穫したりしました。おすそ分けにいただいた夏みかんをジャムにして、別のご近所さんへもおすそ分けすると、庭で栽培していたキュウリをお礼にいただくというやりとりもありました。コモンの緑が楽しい近所付き合いを生み出していたように思います。

阿佐ヶ谷住宅のコモン

コモンには夏みかんの木が多く植えられていた。各家庭で食べたタネを植えると実がなるという話がご近所同士で伝わり、「子どもと植えたのよ」などという話を聞かせてもらった。

阿佐ヶ谷住宅でプラム採り

ご近所さんとたわわに実ったプラムの収穫

ゆるい空間に取り込まれた緑

以前に、阿佐ヶ谷住宅の植栽計画に携わった田畑貞寿先生からお話をうかがう機会がありました。コモンの背景には、「入会地」や「地先園芸」といった日本に古くからある人々の営みを手がかりにして、いかに都市の中へ緑を取り込むかということが考えられていたそうです。入会地は、里山のように農村など村落共同体で、住民たちにより共同管理・利用されていた生産・生活の場です。地先園芸は、江戸時代から盛んになった、現代でも家先や路地裏で見られる園芸活動です。思い思いに植物が植えられた鉢やプランターは、路地と軒先の境界を曖昧にし、セミパブリックなゆるい空間を生み出します。
「えたいの知れない緑の空間」には、津端さんが計画した「市民や市民運動が自由に入り込めるルーズでオープンな余地1」へ、日本の人たちが古くから育んできた「入会地や地先園芸」というセミパブリックな空間を育み、使いこなす力が掛け合わせられていたのです。

住民たちは、庭や時にはコモンへも思い思いに植物を植えていました。それらは、ひとりよがりに植えられているわけではなく、それぞれのエピソードが自然とご近所同士で共有されていました。なかには「あの木、育ちすぎて切ってもらいたいんだけど、旦那さんの記念樹っていうから言えないわよねぇ」という微笑ましい困った話も。そのように育まれた環境は、住まい手だけではなく、周辺に住んでいる人たちにとっても、四季折々植物を愛でることができる楽しい通学・通勤路になっていました。
阿佐ヶ谷住宅のコモン、花壇

阿佐ヶ谷住宅のコモン

住民が育てていたコモンの植物。この場所は特に四季折々植物が植えられ、管理されていた。(私の植物の先生である住民の佐野静江さんよりいただいた写真)

津端さんのご自宅と同じように計画から約50年をかけて育まれた環境は、残念ながら今はもうありません。でも、50年という時間をかけて、あのような環境を育めるということをこの目で見ることができたことは、大きな希望です。一人ひとりが暮らしのなかで自分の生活環境を育み、楽しみを共有することで、私たちのまちは、ゆたかなものになるのだと思います。

阿佐ヶ谷住宅での花見

最後の春に、ご近所さんたちと花見をしました。

(つづく)

(1)津端修一/津端英子(1997)「高蔵寺ニュータウン夫婦物語」ミネルヴァ書房