<遠野便り>
馬たちとの暮らしから教わること
第11回
8月:ムカイトロゲ
馬を飼育する身体
ところで、馬を飼い続ける、というのは、けっこうな肉体労働をともないます。春夏秋冬によっても異なってきますし、飼い方や飼う環境などでもずいぶん異なると思いますが、それなりの筋肉労働をともなうことには変わりはありません。
草や飼料や水が入ったバケツや馬具など、それぞれ形も異なり重さも違う重量物を地面レベルから抱え上げ水平方向に運搬する作業。ボロを集め一輪車を体幹を使って絶えずバランスを取りながら不整地を押して歩く作業。その他にも、その牧場ごとに大小様々な機械運転操作があったり、フォークやホウキなどの道具を使って日々掃除を繰り返すといった仕事が、馬たちの諸々のケアや馬たちのための運動のほかに付随してあります。冬、大雪となればこれに除雪・雪かき作業などが加わります。
このようなことが毎日そして何年も何年も続く、というのが馬を飼い続けるということでもあります。ですから馬を飼育している人たちは、人の身体レベルでみると、瞬発的な筋力から、持続的なパワー、バランス能力、あるいは有酸素運動的な持久力などを毎日多面的に鍛えているともいえると思います。そしてそんな日々の仕事ができることは、文明が人からきつい肉体労働を軽減させていく方向に発達させている現代にあって、身体の健康面からみると、案外、いいことかもしれません。そんなわけで、多少の体調の悪さを押してでも動き続ける、なぜなら、馬たちが待っているから。そんな思いできょうも世界のあちこちの牧場の片隅でホースマン、ホースウーマンたちが地道に働いているのでした。
苔むした石垣の向こうからこちらを凝視する一頭の鹿毛の馬。遠景は霧でかすんだ草原。真ん中に詩のような体裁のシンプルな英文テキスト。そんな写真を最近インターネット上で見つけました。より正確に言うと、いくつかの馬に関するサイトやグループに登録していて、時々あるいは頻繁に馬に関する感傷的なメッセージや、もう少し科学的な新しい知見や論文などが送られてきていてそんな中の印象に残ったひとつです。
ぼくは君のためのセラピストじゃない。
ぼくは君のスポーツアイテムじゃない。
ぼくは君のための寛ぎのソファじゃない。
ぼくは君のペットじゃない。
ぼくは君にとって楽しいRV車じゃない。
ぼくは君の子供のような存在、じゃない。
ぼくは君の娯楽ツールじゃない。
もっとよく見て。
だれが見える?
人の世界には、ときに残酷としかいいようのない抑圧と被抑圧、支配と被支配の構図があふれていますが、人と他の動物の間にも同様な構図が存在することを私たちは知っています。人と馬についてもいまだそれは払拭されるに至っていないという声があちこちから上がり続けて久しいです。しかし、むしろ、構造的で大きな話ばかりではなく、わたしたち誰もの心の中に潜んでいる可能性があり、そして時々発動されてしまう日常的でミクロな抑圧性や支配性や暴力性が自分の心の中に存在することをこそまずは気づいていくことが、そのような構図を無効化していくための最初の一歩だろうとも思います。それぞれの人の心が、その都度内側のそのような性向に気づくことによって、その波頭がやがて何もなかったかのように凪いでいく過程を見つめることも大事なことなのかもしれません。
次回は、9月、里の田は黄金色の季節、高原の馬たちは来るべき冬に備え美しい被毛を夕日に輝かせている季節です。