びおの七十二候

70

款冬華・ふきのはなさく

款冬華

大寒は、冬の季節の最後の節気でもあります。
初候の款冬華ですが、この三文字を「ふきのはなさく」と読むのは、よほど漢字にくわしい人に限られそうです。厳しい寒さの中、(ふき)(とう)がそっと顔をだし始めました、ということでしょうか。
款冬とはフキのことです。その蕾は、土手の上や籔陰などに、萌黄浅緑色の花穂を土中からもたげます。それを蕗の薹といいます。蕗の薹は、元来、野生の植物です。食用として栽培もされていますが、野生のものは香りがつよく、口に入れるとほろ苦さが舌に走ります。
蕗の薹は、春の兆しを示すものですが、まだ時は大寒です。大寒に、蕗の薹を持ってきているところに、七十二候のおもしろさと、自然のもつ生命力を感じます。もっとも蕗の薹は、春の季語でありますが……。
一足早く、蕗の薹を詠んだ句をご紹介します。

蕗の薹岩間の土にひきしまる  西東三鬼(さいとう さんき)

まだ、寒気の中、土を破って芽を出した蕗の薹を、三鬼はこんなふうに詠みました。対象に、しかと目を注ぐ三鬼に凄みを感じる句です。

さて、今候の句は、大寒の入りなので、ずばり大寒の句。

大寒や北斗七星まさかさま  村上鬼城

この句は、歩きながら詠まれた句のように思いました。
大寒の夜にわざわざ外に出て、寒空を眺めるのは、星座を観測する人を除いては、あまりいないように思います。何かの用事で外出して、寒さに身体を震わせながら家路につく折、という方が自然です。ふいと夜空を眺めたら、北斗七星がまさかさまに見えた、というシチュエーション。
村上鬼城は、上州高崎の人です。上州といえば赤城おろしです。日本海にやってきたシベリア高気圧は、越後に多雪を降らせたあと谷川岳にぶつかり、乾いた風に変わります。その風は、赤城山や榛名山にもぶつかり、その下降気流は上州一帯に容赦なくやってきます。鬼城は下駄の音を響かせながら、そういう風に向かって歩き、ふいと首をもたげて寒天の夜空を眺めたら、北斗七星がさかさまに見えたのです。歩いて夜空を見ると、夜空は上下に揺れます。錯覚が生じます。その一瞬を句にしたのです。
このシチュエーションは、村上鬼城という俳人の境涯をよく表わしているように思います。
『週刊俳句』http://weekly-haiku.blogspot.com/「上州の反骨 村上鬼城」のなかで、斉田仁は、

上州の人々は冬になると風に向かって立つ。決して風から逃げたりしない。風の中に立つとこの国の人々は不思議に反発の心が生まれる。田舎者で口べただから、あまり多くはしゃべらないが、短い言葉で反骨の心を語ろうとするのだ

と述べています。
村上鬼城(本名/村上荘太郎)は幼少の頃、軍人志望でしたが耳疾を患いました。司法への道を目指しましたが、司法官への道をあきらめ、やむなく高崎区裁判所の司法代書人の職に就きます。末端の下級職員です。鬼城は、八女二男を抱え、勉学的にも、職業的にも挫折の連続でした。

冬蜂の死にどころなく歩きけり

鬼城の最も有名な句です。彼の境遇が生んだ句とされます。彼はこの一句によって「境涯の俳人」と呼ばれるようになりました。冬蜂を、このように凝視し、食い入るようにその死を見とどけようという俳人は、鬼城をおいてほかにありません。
西郷竹彦は、「蠅でなければ、蝶や蛾でもない、ほかならぬ蜂である。〈詩は志〉であるとする漢詩の精神を是とする鬼城にとって、〈蜂〉とは、いわば志を抱いて時を得ず死所をもとめてやまぬ」古武士のようなものだといいます。

南瓜食うて駑馬の如くに老いにけり
大男のあつき涙や唐辛子
手燭して蚕棚見せけり小百姓
痩馬のあはれ機嫌や秋高し
闘鶏の眼つぶれて飼われけり
生きかはり死にかはりして打つ田かな
稲つむや痩馬あはれふんばりぬ
麦飯に何も申さじ夏の月
春寒やぶつかり歩く盲犬

どの句も切ない句です。虐げられたもの、不具なものに対する思いの丈があふれています。けれども、何回かこれらの句を口に出して読んでいると、不思議に力強さが感じられ、自分の境遇を悲しんでいるばかりの人でないことが伝わってきます。鬼城は、古武士の如く生きた人でした。
若い鬼城の周辺では、時代的に自由民権運動が盛り上がっていました。鬼城の不遇な境遇と自由民権の反骨の精神が結びつかないわけがなく、それは彼の思想形成に影響を与えたと斉田仁(前掲)はいいます。そうして斉田は、鬼城を「境涯の俳人」なのではなくて、「抵抗の俳人」だったと、これまでの評価をひっくり返します。

雷に勝つて角振る蝸牛かな

ユーモアの感じられる句です。斉田はこの句に、鬼城の別の顔をみます。
斉田は、鬼城の句を読み通すと、「古代からの東国の短詩形の血を鬼城も引き継いでいる」といいます。なるほど、そういう見方があるのかと思いました。ほかの評者は、鬼城の不遇な状態ばかりを書いていて、山本健吉などは、鬼城の不遇が全国に喧伝されてお金が寄せられ、それからというもの鬼城の句はダメになったといいます。鬼城の心根にあるところの、純度の高い魂が山本健吉には見えなかったのだと思います。斉田がいう「抵抗の俳人」という説に、直ちに同意できませんが、鬼城の胸中に沸々していた想いは、自己の境涯を嘆くだけのものではなかったと思います。

鬼城に、杉山杉風(さんぷう/1647〜1732年)を書いた一文があります。杉風は芭蕉十哲の一人で、芭蕉の経済的庇護者として知られます。
芭蕉は遺書(口述)中で、

杉風へ申し候。ひさびさ厚志、死後まで忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御いとまごひ致さざる段、互に存念、是非なきことに存じ候。いよいよ俳諧御つとめ候て、老後の御楽しみになさるべく候

と述べています。

栃木市にあった「ホテル鯉保」は、杉山杉風の子孫が経営する旅館として知られ、杉風ゆかりのものが展示されていましたが、最近廃業しました。女優の山口智子さんは同家の長女で、彼女の仕事をみていると感心することが多いのですが、ものに対する鑑識眼は杉風の血筋によるものでしょうか。
杉風は、晩年は耳聾に苦しんだといわれます。鬼城が、作家論として杉風をとりあげたのは、同病を持つが故かもしれません。下記の文章は、杉風を書きながら、鬼城は自分を語っています。

古へ、芭蕉のいへることあり。淋しさに居るものは、淋しさを以て、主じとすると。実にや、淋しさは、淋しさに居り、淋しさを満喫し来って、而後に、僅かに淋しさを忘るべけんなり。つくづく月の淋しさを思ふの時、月こそ我が友なり。我笑へば月笑ひ、我泣けば月も亦泣く

萩原朔太郎に『月に吠える』という詩集がありますが、そういえば朔太郎も上州の人でした。鬼城は、月に向かって吠えてはおらず、「月こそ我が友なり」といいます。「我笑へば月笑ひ、我泣けば月も亦(また)泣く」といいます。

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2009年01月20日の過去記事より再掲載)

雪を掘る猫