まちの中の建築スケッチ

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旧本多家の長屋門
——武蔵国分寺跡の江戸の佇まい——

旧本多家の長屋門

武蔵国分寺跡を訪ねた。国分寺街道から元町通りを少し入ると、「お鷹の遊歩道」の看板があって、小さな川が流れている。尾張徳川家の鷹狩の地であったという。カワニナも生息し蛍も見られるようだ。江戸時代は、ところどころに林の点在する広い野原だったのであろう。
両側に住宅の立ち並ぶ細い道を川に沿って少し歩くと、武蔵国分寺跡資料館の入り口には、旧本多家の長屋門が建っている。門とは言え、170年前の立派な庄屋の住居で、2015年から2年間にわたり大修理がされて、1階の座敷からは、庭が眺められ、2階は展示室になっており、小屋組みも見事で、お蚕場も展示されている。村医者の本多すいけん(1835-1916)の拠点であったという。改修にあたり、屋根はガルバリウム鋼板一文字葺きのすっきりした寄棟屋根になっている。武家屋敷は瓦葺き、農家は茅葺が一般的であったろうが、金属板屋根も最近のガルバリウム鋼板は軽量で耐久性があってということからの選択となったのだろう。入り口手前には、「おたカフェ」があって、食事もできる。デッキにタープが張ってあったり、自然な雰囲気をかもしている。
資料館には、縄文時代の土器から、天平時代に建てられた武蔵国分寺の模型や、国分寺に用いられた瓦などが展示されている。1333年に新田義貞の鎌倉攻めで、国分寺は焼失し、その後は、薬師堂を建てたというが、1km×1.5kmの広大な敷地のかなりの部分は、江戸時代までには野原となり農地となったことが想像される。
今も建物跡地を中心に都立や市立の国分寺公園として残っているが、天平時代の様を想像するのは難しい。江戸時代には、湧水を引き農業用水として整備した、その残りがお鷹の道の元町用水路である。
国分寺崖線は、このあたりから大田区まで多摩川の東側に崖地形を残しており、あちこちに湧水が今も見られる。江戸も今の東京区部は大半が湿地や海だったわけで、人の住む場所になったのは、徳川時代以降のこと。このあたりは、府中や調布、国分寺という名前にあるように、皆古く大化の改新くらいまで遡り、長く集落として栄え、鎌倉時代ころに整備された街道筋の歴史を語る。
住宅地は狭い道が折れ曲がっているが、おそらくは、戦後になって細分化された住宅が今は所狭しと建っている。もっとも中には、広い敷地に大きな古い木造の家も散見された。
現代の武蔵野のまちの中を歩くことで、江戸や明治の農家を想像することはできる。心地よい自然が少しではあるが残されている。

著者について

神田順

神田順かんだじゅん
1947年岐阜県生まれ。東京大学建築学科大学院修士修了。エディンバラ大学PhD取得。竹中工務店にて構造設計の実務経験の後、1980年より東京大学工学部助教授のち教授。1999年より新領域創成科学研究科社会文化環境学教授。2012年より日本大学理工学部建築学科教授。著書に『安全な建物とは何か』(技術評論社)、『建築構造計画概論』(共立出版)など。