びおの珠玉記事

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熊蟄穴・延長された表現型

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから珠玉記事を再掲載しました。
(2014年12月12日の過去記事より再掲載)

ツキノワグマ

ツキノワグマ


七十二候は「熊蟄穴(くまあなにこもる)」、熊が冬ごもりのために巣穴にこもるころ、とされています。
日本の七十二候のもとになった中国の七十二候には、熊蟄穴という候はなく、大雪の次候はかわりに虎始交、トラが交尾を始める、ということになっています。

熱帯に住むトラは年中交尾をし、寒い地方では冬だけ繁殖するそうで、中国の七十二候は寒い地域で定められたのでしょうか。

熊蟄穴、の熊は、現行の七十二候が日本で明治時代に考案されたことから、恐らくツキノワグマでしょう。ツキノワグマは冬眠中に出産する、というちょっと変わった生態を持っています。

子持ちの母グマは危険だ、というのはよく聞きます。「虎の子」という言葉があるように、トラも我が子を大切に育てます。

人間も含んだあらゆる生物は、自分の遺伝子をのこしたい、次世代に繋げたい、とう本能があります。哺乳類だけでなく、鳥も魚も、植物や微生物も、みな自らの遺伝子をのこすために生を全うしようとします。

立派なたてがみや大きな鳴き声、美しい羽など、動物たちは自らの遺伝子を異性にアピールします。このとき、遺伝子のアピールは自らの身体だけに限らない、と考えたのが、動物行動学者・進化生物学者のリチャード・ドーキンスでした。

ドーキンスは「利己的な遺伝子」で知られています。生物の個体は遺伝子の「乗り物」にすぎない、という説です。遺伝子によって、乗り物は飾り立てられて異性を獲得し、自己を複製していくのだ、と。

そして、この遺伝子が及ぶのは、何も生物個体の身体だけではない、といいます。その影響は、例えばクモの網であったり、ビーバーがつくるダムであったりと、動物たちがつくる造作物も、その影響下にある「延長された表現型」だとしているのです。

クモの網もビーバーのダムも、自分の採食域を拡大する、という意味では、遺伝子から延長された表現型であるのではないか。

けれど、クモの場合は一個体による網ですが、ビーバーの場合は、交尾したカップルが、時に幾世代にもわたってダムを作り、運用していくかもしれません。

話がどこに行くか、心配している方もいらっしゃるでしょうから、私たちの住まいの話に舵を切ります。

人も生物ですし、遺伝子の表現型が身体にとどまる必然もなさそうです。そうであるなら、作られた建物は、共同体の延長された表現型、と言っていいのかもしれません。ただ、人の住まいの場合は、動物たちと違って、使う人と作る人が大抵の場合は別ですから、仮に延長された表現型であるとしたら、いったいどちらの表現型と考えたらいいのでしょうね。

ある種の意匠や機能に意を同じくする人たちの共同による表現型、と考えてもいいのかもしれません。作り手と住まい手は、どちらか片方だけでは成り立ちませんから。

町の工務店ネットの「現代町家」では、「現代町家憲章」を掲げています。

「美しい町並み景観をつくる家であること」からはじまり、「その家は、前を通る人の家でもあること」でおわる11項目。もちろん、生活の用をなし、快適に暮らせるということは重要ですが、同じように、周囲に対する景観も重要であると考えています。

現代町家憲章

現代町家憲章


ところで、下の写真は、ある病院の出口近辺の様子です。
まちの薬局
別段フツウの風景、でもあります。電線が乱舞し、看板が我れこそはと設置されていますが、これがむしろフツウの風景となっています。
病院の周りには、医薬分業で処方薬局が乱立しています。目立って生き残るのもまた表現型、であるとしても、果たしてこの風景は美しいかと言われれば、肯定はなかなかできません。看板や電線は増えれば増えるほど、ノイズとして、そこにあっても、目に入らなくなっていきます。目にはいらないけれど、そこにはあって、こうした風景をつくっている。

日本の建築に関する規制の多くは、防火、耐震や近隣の日照といった機能面のものが多くて、そこに木が一本もなかろうが、南欧風の隣に純和風だろうが、とんでもない色の外壁だろうが、多くの場合は容認されてしまいます。俺の土地に何を建てようが自由。という自由は、本当にいい自由なのでしょうか。局地的には景観条例や建築協定といった縛りもはたらきますが、一体何が本当の美しさで豊かさか。

アレックス・カーの「ニッポン景観論」には、日本の景観がもともと持っていたポテンシャルと、それを壊してきた日本の姿が描かれています。なんと皮肉なことに、海外の美術品や風景に、日本の景観をコラージュして、まったく日本的な注意書きだらけのダヴィデ像やら、ノートルダム大聖堂やらを作ってしまうということまで。日本はそういう風景である、ということが改めて伝わります。

果たして、現在の日本の景観が、私たちの延長された表現型なのでしょうか。やっぱり、いまいちど「その家は、前を通る人の家でもあること」と声をあげましょう。