まちの中の建築スケッチ
第65回
湯島聖堂
—— 歴史の継承——
昨年末から刊行され始めた「アジアの人物史」(集英社)を読んでいる。歴史を人物単位で見るというのは、面白い。もちろん、皇帝や王、将軍の存在が、時代を変え、国を組み立てて、今の現代の社会に継っているとはいうものの、同時に宗教や文化において、歴史に名を遺した人間の存在の重さを教えられる。孔子は、紀元前5世紀に遡る人物であり、日本はまだ文字もない農耕・狩猟の集落社会であった。弟子たちにより整理された「論語」を始めとする儒教の教えが、その後の中国における政治哲学としての大きな役割を果たした。
秦の始皇帝(前259-前210)にしても、後漢の光武帝(前6-57)にしても、さまざまな思想源流がある中で、儒教を選択して政治の中心においた。宋代になると朱熹(1130-1200)が解釈を朱子学としてまとめ、さらに朝鮮や日本でも、多くの学者を輩出していると同時に、社会のあり方としての文化形成に大きな影響を与えていることは驚くほどである。
その孔子像が祀られている建物が湯島聖堂の大成殿である。江戸時代、綱吉(1646-1709)が1690年に儒学振興のため湯島に聖堂を創建。その後、1797年には昌平坂学問所として幕府直轄の学校となった。幕末の多くの人材を育てたと想像する。明治になって、東京大学や筑波大の前身の役割も果たした。
建物は関東大震災(1923)で被災し、その後、伊藤忠太(1867-1954)の設計により鉄筋コンクリート造で再建された。1986年から1993年にかけて大林組の施工により保存修理がなされたという。
御茶ノ水駅からは、ニコライ堂を背にして、JR線と神田川にかかる聖橋から眺めると、森に埋もれる感じの屋根が見える。橋を過ぎ、右手の階段を下ると湯島聖堂である。入徳門をくぐり、大階段を上ったところに「杏壇」の額のかかった門があり、その中が回廊になっていて、正面に堂々と大成殿が鎮座している。いざ、スケッチしようとしたが、建物と距離がとれない。階段を下ると大成殿も見えなくなるので、また本郷通りへの階段を上って、外側を一回りした。
聖橋の本郷通りが湯島聖堂の交差点で突き当ると、国道17号になる。その角が小さな公園に整備されている。国道17号を右に折れて少し下ると、すぐ左手に神田明神(神田神社)があって、その手前には昔からのお茶屋さんがある。「旧中山道」標識も見える。
ちょうど大成殿の真裏になり、塀があって石垣もある。ここから、大成殿をスケッチすることにした。堂々とした緑青色の屋根の棟の両端には、立派なしゃちほこが波を噴き上げている様に見える。周辺の木々はまだ葉をつけておらず、枝が見えるばかりだが、桜がきれいに咲いている。ボールペンで桜をどこまで表現できるか、挑戦のつもりでペンを走らせた。珍しく、2人ほど女性が、スケッチを覗いて声を掛けて行った。
この湯島聖堂、神田明神、さらにその先には、湯島天神と神を祀る建物が、駿河台のニコライ堂から湯島に連なっているまちである。