よいまち、よいいえ

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愛知県清須市土器野・美濃路沿い

旧美濃路の町並み

屋根神さまと安全?

描いた場所は、岐阜県垂井町(旧垂井宿)と名古屋熱田区(宮宿)を結ぶ旧美濃路の旧町屋のある交差点からだ。美濃路は、かつて舟で渡らなければならない区間のある旧東海道に代わる陸路としての役割もあったようだ。街路灯の続く方向がその美濃路で、現在も右側にも町屋が点在し、ほぼかつての狭い幅に自動車が相互通行する道であり、右左に車も抜けられる小道の交差点だから、そこで描くには、車の通行によって描くのを止め、移動や後退せざるをえない。トラックが目の前を右折しようとした時、足元を確かめず描き始めたものだから、後ろは側溝しかないのに後退し、後ろへ転びそうになり、運動神経も更に悪化しているはずなのだがどうにか助かった。何故か? 原稿を書く段階になって、絵の中心の屋根の上の屋根神様のおかげとも考えた。こうした屋根神様を祀った町屋は、愛知県や岐阜県に多くあったようだが、ここは残した希少例の一つだ。現在は、市に寄付され、地上階は無料のお休み処、そして下階は貸ギャラリーとして利用されている。

知恵と恵みの出会い歩き

無知の楽しみ

旧街道を全て歩ききったのは、東海道と日光街道だけで、他は途上だ。今回も限定区間であり、歩いていない旧街道もまだまだたくさんあるが、それでも延べ1000km以上は歩いてきた。おおまかな構成は、案内情報や地図や航空写真などでもわかった気になるが、行けば大違いと感じる。実態を知るにはまず歩くことから始まるのだろうが、歩く関心事の一つは、道や主要施設の骨組み、そして道と土地の関係とその変化や展開にある。街道沿いなど歴史的な市街地は、間口が狭く奥行の深い短冊状の土地が並んでいるが、現在、かつての街並みが連なる姿は、伝統的な保存地区を除けばなく、戦後からの建築基準法などにより、かつてのような建て替えもできなく、建物や土地の対応や在り方は様々で、これからへの課題意識も更に深まってくる。現場でスケッチしたところで、所詮入り口の入り口にすぎなく、後で見落としに気付くなども反省の一つに過ぎず、そのかつての姿や地形、人々の繋がりや文化などにも気付かないで通り過ぎていると観察力のなさを痛感し、無知だったことを知り、次の知につながる。

憂いと救いと

最初に完歩した旧東海道でも、今まで国などが進めてきた公共交通、鉄道や自動車道路や法が、地域の生活やコミュニティや文化を変えて壊してきたという悲しみの確認は多くあったが、一方、それぞれの地域にはありがたいと思う発見もさせていただいた。歩く途上のトイレや休憩では、コンビニや神社に救われた。お寺の多くは、門構えが立派で、墓地や駐車場で占められ木々は少なかったが、神社は、地域の永い歴史の中で緑を残し育て、誰でも入りやすく、更に子供達の遊び場を提供していた。お祭りや行事の関連とともに、コミュニティや防災や環境保全の拠点として現役であり、その存在の意味深さを再認識させていただいた。
松並木の再生に努力している町もいくつかあり、その在り方も多様で、興味深かった。自動車の通行が頻繁な道沿いでも、塀や門で囲わず家先が開放的で、道との狭い間に庭や緑を育てている家も見られた。特に歩道もなく車の行き来で危険な区間では無言で提供してくれているその優しさと勇気に感謝した。永い不遇や危険に耐えながらも微笑んでつないでくれるような心を感じる。

未知との遭遇?

旧街道の連続歩きの宿泊は、そこで体験できる楽しみがあるが、たいがいの宿場町ではもう泊まれなく、どうしても旧城下町などの拠点都市になる。夜は、ジャズライブの店を訪ねて地域の音楽を楽しむこともある。岡崎では、ジャズセッションに参加でき、「この素晴らしき世界」の歌と楽器も演奏、そこで声をかけてくれた知り合いもできた。辛い経験の話をされたその方も、チャップリンの曲「スマイル」を歌い、SNSでも友達となり、宿まで車で送ってくれた。怪しげな旅人の小生に、勇気とともに優しさを持って接してくれたのだ。
また、探している今後の環境整備事業の展開にヒントを与えてくれる先人を知る場も得た。それは、金原明善氏の生家に街道歩きの途上で寄った時だ。氏は、浜松市の天竜川そばで江戸時代に生れ、度重なる水害に明治時代に治水事業を発意し、源となる治山事業や教育、罪人の更生、自立支援事業まで様々な新たな実践をした人物だ。当時からも、環境への共同出資事業の重要性も唱えていたようで、小生のこれからへの希望と励みにつながってきた。

知恵のかたちへ

旧東海道の有松を再度訪ねてスケッチしたことから始まった今回の旅も、これからへのヒントとなる知恵の歴史を知る機会を得た。一つは、掲載したスケッチの場にもある。左のお休み処には地下階があり、その高さより低いところが周辺の土地だから、接している道は、周囲より高く堤防の役目もあるだろうと想像できた。また、西側を流れる新川は、江戸時代、洪水から救うため藩と地元で造られた人工的、共同的な川と知った。屋根神さまを祀ることは、地の安泰の願いとともに、被災への警鐘を日常に示し、コミュニティや祭りの象徴でもあっただろうことにも結び付いた。更に環濠(かんごう)集落の歴史。私事で恐縮だが、3.11東日本大震災の津波被害等のその数か月後、対策案として、周囲を掘った土で高台を築き、水の分散と利水とともにエネルギーや上下水の自立を創る環濠集落的な整備構想を発想し発表したが、スケッチを掲載した美濃路土器野の同市内の清須城の展示で、周辺にその環濠集落の原型が、既に弥生時代にあったことを知った。この周辺は水が集まる土地で、それは利水とともに防災と防御を兼ねた水に囲まれた自立の環境づくりの姿だったのだろうが、それは、後の中央集権国家化によってなくされたようだ。自立に対して国家権力が地域を壊す歴史があった一方で、後世の人々が新たな前述のような知恵で乗り切る努力の重ねがあり、自動車社会が道沿いを壊している現在でも、優しく立ち寄れる場づくりを地域で実践し、努力と知恵の歴史を受け継いでいることに気づかさせてくれた。

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2016年03月05日の過去記事より再掲載)

著者について

小澤尚

小澤尚おざわ・ひさし
国内や外国の現地でのスケッチとともに、昔の姿の想像図や、将来への構想や設計の図も、ハガキに描き続け、ハガキをたよりに、素晴らしい間の広がりを望んで活動。2004年から土日昼は、日本橋たもとの花の広場で、展示・ライブ活動を行ってきた。 東京藝大建築科卒、同大学院修了。(株)環境設計研究所主任を経て独立し、(株)小沢設計計画室を設立し、広場や街並み整備も手掛けた。宮城大学事業構想学部教授(1997~2013)を経て、設立した事務所のギャラリー・サロン(ギャラリーF)を日本橋室町に開設・運営。2021年逝去。

連載について

建築家・小澤尚さんによる連載「よいまち、よいいえ」。 「いえ」が連なると、「まち」になります。けれど、ただ家が並べばよい、というのものではありません。 まちが持つ連続性とは、空間だけでなく、時間のつながりでもあります。 絵と文を通じて、この関係を解いていきます。