まちの中の建築スケッチ

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三十三間堂
——京都の建築——

三十三間堂

日本建築学会の大会が4年ぶりに対面開催となり、京都を訪れた。中学校・高校の修学旅行以来、数えきれないほど京都を訪れてはいるが、つい素通りしていたのが三十三間堂であった。今回は、京都駅近くに宿を取ったということから、朝の散歩にしては少々汗をかいたが、鴨川の七條大橋を渡って8時半開門に一番乗りした。高校生か数人も、少しずつやってきて待っている。

京都は、桓武天皇の時代に都としてわが国の中心に定められ、平安時代の200年を超える文化を生み、また全国へと、その発信の地でもあった。そんな古代社会が中世の武士の世の中へ変わる様子が現れるのが、平安末期の保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)である。

後白河天皇(1127-1192年)が、位に就いたのは1155年で、わずか3年で1158年に二条天皇に譲位して上皇となるが、その後34年にわたり院政を敷いたとされる。すでに、上皇による院政が政治システムとしてできていたとはいえ、貴族の藤原の力が武士である平清盛にとって代わられ、さらには、源平の対立が、乱の形で繰り返される中で、翻弄されつつもそれなりの力を発揮したのであろう。戦いのあるときには、院宣を出して歯向かう一団を成敗する。そんなことを繰り返し、果たしてどのような明日が訪れるか、常に不安なままに、日を過ごしたのであろう。この世を去った2か月後に、源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉時代となった。

その不安の表れが千の仏を住まいの近くに安置したいということで、そのために建てられたのが蓮華王院(三十三間堂)であると想像する。火災にも遭い、再建されているとは言え、平安時代の京都の建築を、今もそのままの姿で見ることができる。

手前に風神、一番奥に雷神。その間には、二十八部衆像、そして千体の千手観音立像と、実にぎっしり仏像が並んでいる。中央には本尊の千手観音座像が安置され、読経も行われていた。三十三間というが、その1間は実は、3.6mであり、全長120mもある。一周して裏手に回ると、その三十三間を射抜いたという弓の力比べの歴史が記されていたりする。

建築としては、言ってみれば、平面としてはただの四角の細長い箱ではあるが、周囲の庭も整えられていて、気持ちよく歩ける。何よりも、中の仏像群への後白河院の思いを想像することが、ほんの一部とはいえ京都の歴史に触れることであり、人の悲しみや喜びを思うことでもあると感じられる。

東大門の両角に置いてあるベンチがちょうど影になっており、腰を下ろして、正面からスケッチしてみた。京都の建築は歴史を見せてくれる。