季節をいただく
玄米の土鍋炊き
寒さが早まりそうな気配。
新米の季節、各地に折々の田園風景が広がり、立ち寄った信州梓川のハッピーヒルは、青い穂が凛とした姿で立ち揃い、天に向かって伸びていた。
遠州浜松のイセヒカリは黄金色に照らされ、稲刈りを終えていたコシヒカリの玄米をいただいた。
さっそく、新米ご飯を炊く。
二十年余り使い込んでいる伊賀土の土鍋に水をはる。
玄米の土鍋炊きは、お米が実る道のりと同じ。
田んぼの土と水、そしてお日様の役目を、土鍋と水と火の加減で担い、お米がご飯になる。種籾をより分け、苗代にてゆっくり芽吹かせるように、玄米を研いで水の中でひと晩寝かせる。
土鍋に玄米と頃合いの水を入れ、鍋底に触れるくらいの火でコトコト。
苗をおろす春の田のような日向の温かさが、土鍋の中に広がる。
気泡がプクプクあがり始めると、初夏の日差しのように、鍋底をなめる程度に火を入れ、お塩ひとつまみや、梅干しひとつ入れてもよし。
鍋のふちから泡が立つと、真夏の照り返しのように土鍋全体が熱を持ち、玄米を躍らせる。
やがて鍋のふちがパリパリ乾きはじめると、秋の気配のトロ火に、甘い香りに芳ばしさが加われば玄米ご飯の炊きあがり。
五徳からおろして土鍋の余熱で蒸らした後、柳行李に移し、手ぬぐいに包んで、余分な水気が抜ければ食べごろ。
五感のままに、お米の声に耳を傾け、量も時も計らない玄米の土鍋炊き。
新米のみずみずしさに、ひと口で頬がゆるみ、噛むほどの甘さに箸もすすみ、一汁一菜で満たされる。
お米を水だけで炊いた玄米ご飯は、水分をたっぷり含んだまま腸を潤し、からだをめぐる天地のかけら。
ほんの百年前、人々は暮らす地に生る季節の恵みを、はしり、旬、なごり、それぞれに手をかけ、無駄なく食べていた。
今では、冷凍技術や輸送により、時を越え、空を越えた食べ物が、興味と流行りで街にあふれ、目につくと、自覚のないまま身体に流し込むように食べてしまうこともある。
飽食を通り越し、容易に食べ物を捨てている消費のための生産の仕組み。
富の独占のため、種までもがその道具にされようとしている。
一粒の種はいのちの源。
芽吹いた一粒のお米は、十の茎に分かれ、それぞれに百余りの籾をつけ、やがて穂を垂れる。一粒万倍、いのちの仕組みそのもの。
いにしえより連綿と受け継がれている稲作により、米、籾、稲、稲穂、飯など、呼び分けられ、神事に、暮らしに余すところなく使われている。
お米をいただくことは、心身の養生。
天地に育まれる稲を眺め、飯を炊き、風、水、土、火に触れることの歓びが、一口のご飯から溢れている。
ごちそうさま。