

- 2020年02月16日更新
- 画 しゅんしゅん
三の七
その時、私は、はじめて自分は何者なのか、ということを意識したのかもしれない。
ゾクゾクした感覚の正体は、神風楼の物語がにわかに立ち上がったことの衝撃であり、それが自分自身につながることの興奮だった。
そして、神風楼の幻影の先には富士屋ホテルがあった。
燃えさかる遊郭の炎の先に、豪奢な装飾に彩られた富士屋ホテルの建物が屹立していた。
それは、家族の借景として当たり前に存在していた富士屋ホテルを初めて俯瞰した瞬間でもあったと思う。
高校一年の初夏から晩秋にかけて、山口虎造の出現は、十五歳から十六歳になる多感な年頃だった私の根幹を揺さぶった。
興奮と衝撃は、程なくして、いつか自分でその物語を書きたい渇望につながっていった。作家になりたい夢が芽生えたというよりは、ただひたすら、自分自身の出自である物語に魅了され、心奪われていたというべきかもしれない。その物語をかたちあるものにするために、自分が書かなければならない。誰かに書いてもらうのではなく、自分が書きたいという強い衝動だった。
高校一、二年の頃の私が、いかに真剣にそう考えていたかは、赤面するような言動をしたことにも象徴された。
母裕子には、祖母千代子からつながる従姉妹が二人いた。
年齢の近い三人は、いずれも一人娘だったことから、姉妹のように親しかった。最も年少の裕子と、年長の智寿子の二人が才気煥発で、どこか似たところがあった。智寿子は、ホテルの娘として育った裕子の環境を、裕子は智寿子の才能を、多分に意識していた。
そして智寿子は、若くして作家になった。
芥川賞候補になった出世作は、占領時代の富士屋ホテルを舞台にした小説だった。
虎造に出会った頃、私たちは母裕子の追悼文集を出版した。それに、私が記した文章を読んだ智寿子から連絡があった。
彼女は、たった一言、ぽつんと感想を言った。
「あなたの文章は枯れていたわ。文章というものは、どんなに若い者が書いても枯れていなければいけないのよ」
褒め言葉ともつかないその一言が私の密やかな渇望に火をつけた。
そして、高校生の私は、著名な作家になっていた智寿子に対してあろうことか、こんなことを言ったのである。
「お願いがあります。富士屋ホテルのことは書かないでください。いつか私が必ず書きますから」