山口由美
2022年04月24日更新

仙之助編 七の九

捕獲した巨大なマッコウクジラはクレマチス号の右舷側に鎖でつながれた。

もうひとつの闘いの始まりだった。

サメに食い荒らされる前に解体しなければならない。

右舷につながれた鯨の上に鯨を切る専用のプラットフォームが吊された。

マッコウクジラ独特の四角い頭が最初に切り落とされる。貴重な「鯨蝋」が取れる頭の先端をまずは処理する。通常の鯨油より三倍から五倍の価値がある。乗組員たちがマッコウクジラを珍重する理由のひとつだった。

頭の残りの部分からも鯨油は取れる。顎と歯は工芸品の材料になった。

次に鯨の分厚い脂身を切り取る作業が始まる。オレンジの皮を剥くように剥ぎ取られた脂身は「Blanket (毛布)」と呼ぶ。実際、布団ほどの大きさがある。さらに小さく切ったものが「Bible (聖書)」だ。本のような形状であることからこう呼ぶ。

「聖書」になった脂身は、レンガ造りのストーブの上に置かれた鉄鍋に入れる。

脂身を溶かして鯨油にするのだ。できあがった鯨油は木樽に詰めて船底に運ぶ。

作業は交代制で昼夜を徹して行われた。

貴重な獲物を一刻も早く処理しなければならないからだ。専用の道具を扱う樽職人や大工以外はすべて動員される。船室係の仙之助やラニも例外ではなかった。

船内にはずっと血なまぐさい匂いが立ちこめていたが、それはまだ我慢が出来た。

だが、鉄鍋で脂身が溶ける時の異臭は、嗅いだことのない独特の匂いで、仙之助は閉口した。船酔いにはめっぽう強かったが、鯨油を燻す匂いにはやられた。何度も気分が悪くなり、食事が喉を通らなくなった。

青白い顔をして鉄鍋をかき混ぜている仙之助を見て船長のダニエルが言った。
「おい。ジョンセン、大丈夫か」
「は、はい。大丈夫です」

吐き気をこらえて仙之助は答えた。
「ジョンマンは、遭難して助けられた直後から操舵手として活躍したと聞いている」
「操舵手……ですか」
「そうだ」

果敢にマッコウクジラに向かっていくジョーイの姿を思い出した。

ジョン万次郎は、土佐の漁師だったというから海には慣れていたのだろう。だが、ジョンマンにあやかった名前を授かった以上、この程度の試練に負けてはいられないと思った。

万次郎

ダニエルはジョンマンの話をすることで、仙之助に捕鯨船乗りとしての自覚を持たせようと思ったに違いない。仙之助の肩をポンポンと叩いて笑顔を浮かべた。

鯨の血糊と脂でべとつく甲板は滑りやすく、いつまでも気分が悪いとふらふらしていたら、足を滑らせて海に落ちてしまう危険もあった。気合いを入れ直さなければ。

仙之助は深呼吸をすると、鼻をつまんで食事をのみ込んだ。

次回更新日 2022年5月1日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお