山口由美
2022年06月05日更新

仙之助編 八の三

「さあ、ペドロパブロフスク・カムチャスキーに到着するぞ」 

甲板の上がにわかに慌ただしくなり、乗組員たちは船を係留するためのロープの準備に慌ただしかった。仙之助には耳慣れない地名をダニエルがすらすらと口にするのは、横浜がそうであるように、船乗りには馴染みのある港なのだろう。

ペドロパブロフスク・カムチャスキーの港の風景

「この港の名前もロシア語ですか、ペドロパブ……、ええと、カムチャ……」
「ハハハハ、ロシア語の名前は覚えにくいな」

ダニエルは笑いながら答えた。
「ペドロとは英語のPeter、 パブロとはPaul のロシア語読みだ」
Peter Paul はわかります。人の名前です」
St.Peter、St.Paul になると……」
「セント……」
「キリスト教の聖人の名前になる」
St.Peter St.Paul、 聖人の名前を冠した二隻の船がこの港を発見して、名づけたと聞いた。カムチャスキーとは……」
「カムチャッカのことですね。鯨の漁場、カムチャッカ・グラウンドの」
「そして、この半島の名前でもある」
「カムチャッカは島ではないのですね」
「大陸から続く半島で、島ではない。だが、土地に暮らす人々は彼らの言葉で島と呼ぶ」

命名の由来を聞くと、呪文のような地名もすっと頭に入ってくる。
「ペドロパブロフスク……、カムチャスキー」

仙之助は、生まれて初めて見た異国の港の名前を忘れまいと何度もつぶやいた。

港を発見したとされる二隻の船とは、十八世紀、ピョートル大帝の時代の探検船だった。ロシア語を冠された港は、その後、探検基地となり、ロシアはユーラシア大陸と北アメリカ大陸が陸続きでないことを確認し、アリューシャン列島を発見した。

もっとも発見と言っても、欧米列強によるあらゆる地理的発見がそうだったように、それぞれの土地には先住民がいた。千島列島にはアイヌ民族が暮らしていたように、カムチャッカにはコリヤークと呼ばれる先住民がいて、海岸に住むコリヤークは海で漁をし、内陸のコリヤークはトナカイの遊牧で生計を立てていた。

探検家の次には毛皮商人がやってきた。

ペドロパブロフスク・カムチャスキーが周辺を航行する船にとって重要だったのは、天然の良港であると共に不凍港だったからだ。高緯度にある北の海は冬になると氷で閉ざされる。冬でも凍らない港は人の往来を一年中可能にした。

毛皮商人の次にやって来たのが捕鯨船である。

クレマチス号は入港すると、ハワイまでの航海に必要な水や食料をたっぷり積み込んだ。乗組員は上陸を許されたが、旅券を持たない仙之助はダニエルの判断で船に留め置かれた。

次回更新日 2022年6月12日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお