山口由美
2023年12月03日更新

仙之助編 十四の八

謎の船員がドアを叩いた時から、富三郎の胸には「もしや」という期待があったが、封書の表書きを見た途端、心臓の鼓動が高鳴った。
「牧野富三郎殿」

英語の住所と名前の下に黒々とした毛筆で、見慣れた筆跡の日本語が記されていた。

手紙を受け取る牧野富三郎

クジラの季節はもう終わっている。

富三郎が怪訝そうに顔を覗き込みむと、アジア系の男は言った。
「ヨコハマから、マーチャントシップ(商船)できた」
「そうか、そうか。横浜で手紙をことづかったのか」
「ホノルルに行くと言ったらこれを渡してくれと頼まれた。お前がこの男か」
「そうだ」

富三郎の返事を聞くと、男はにやりと笑った。

待ちに待った仙之助からの便りだった。

はやる気持ちを抑えながら手紙の封を開けた。薄汚れた封筒がここまでの長い道のりを物語っていた。

牧野富三郎殿
クレマチス号で小笠原諸島を経由して無事横浜に到着した。
私も父上の粂蔵旦那も達者でおるので安心してほしい。
横浜の遊郭は豚屋火事の後、吉原町に移転し、岩亀楼と神風楼は再建をなした。今や神風楼は、岩亀楼と肩を並べる大店である。
それと言うのも父上が異人の客を岩亀楼だけが独占するのはいかがなものかと注進したからだった。以来、どの店でも自由に異人の客をとることができるようになり、神風楼もおおいに繁盛している。
お前の尽力により日本から使節が派遣され、万事交渉が上手くいったことは聞いた。あらためてお前の手腕には感心しておる。
まもなく移民の契約満了を迎えるが、その後の身の振り方はどうするのか。
帰国するのか、ハワイにとどまるのか。帰国するのであれば、ほどなく再会できるだろうが、そうでないのなら、お前の便りがほしい。
横浜に戻ったら、幕府の時代は終わり、新しい明治の時代になっていて驚いた。
神風楼には異人のほか、新政府の高官もやってくる。父上は彼らとも親しく交わり、新しい時代の行く末を見ている。
横浜の港に捕鯨船が入港するたび、再び乗船したい衝動にかられる。だが、鯨捕りになるのが、私の人生の目的なのかどうかもわからない。
しばらくは横浜にいる。お前の便りを待っている。

明治四年三月 山口仙之助

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次回更新日 2023年12月10日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお