山口由美
2022年03月27日更新

仙之助編 七の五

クレマチス号は北海道の箱館(函館)で短い寄港をして、追加の補給をした。

横浜と同じく日米和親条約で開港した港である。密航者の仙之助は横浜の出港時と同じように船底の船室に身を潜めた。

先輩の船室係であるラニだけが船に残っていた。がっちりと大柄な男で、皮膚は浅黒く、大きな黒い瞳が印象的だった。不思議な響きの名前がジョンセンのようなニックネームなのか、本当の名前なのかもわからなかった。船長と航海士の食事を二人で給仕するのだが、仕事に最低限必要なことしか話さない。だが、その日は珍しくラニが話しかけてきた。
「ジョンセン、お前はホノルルに何をしに行くのか」
「ハウスボーイとして働きます」
「そのためだけに海を渡るのか」
「……」

ユージン・ヴァンリードの移民計画のことはうっかり話せないと思い、仙之助は黙った。
「ハワイはどんなところだと聞いている?」
「極楽(Heaven )のようなところだと聞きました」

ラニは、ふっと力なく笑った。
「そうだといいな……」

意味深長な返答に仙之助は戸惑った。ラニは、自分がハワイの出身であり、名前はハワイの言葉で「Heaven 」を意味するとだけ話すと、再び意味ありげな笑みを浮かべた。

クレマチス号は、ほどなく箱館を出港した。

津軽海峡を抜けて北海道の西沿岸を北上する。季節は夏に向かっているのに、日を追うごとに風は冷たくなっていく。北海道の宗谷岬と樺太の間にある海峡を過ぎると、その先に広がるのはオホーツク海だった。海上を吹く風はさらに冷たくなった。

乗組員たちは分厚い上着と長靴を身につけた。仙之助も白いアザラシの上着を着て、船長から借りたぶかぶかの長靴を履いた。船上がにわかに慌ただしくなっていく。

マストに何人もの平水夫がよじ登り、航海士は望遠鏡を持って甲板に立った。

いよいよ鯨の出没する海況に入ったのである。

操舵手たちは、船上に吊してある小舟をおろす準備をしている。

鯨が見つかったら、小舟で接近し、銃で撃ち、最後は銛で絶命させるのだという。

海を幾つかの方角にわけ、それぞれが担当する方角で鯨の姿を探す。

遠くの鯨を見つけるには、まずは「Blow(ブロウ)」を見つけることだと教わったが、鯨を見たこともなければ、生態も知らない仙之助には、その意味が掴みかねた。
Blow(ブロウ),Blow(ブロウ)」

突然、マストの上から大きな声が上がった。

声を上げた男は、腕を伸ばして方角を指し示す。

捕鯨船

船長が指し示す方角に舵を切り、船体がぐらりと斜めに揺れた。

次回更新日 2022年4月3日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお