山口由美
2021年09月12日更新

仙之助編 五の三

仙之助の操る小舟には、女郎が十人ほど乗った。

富三郎の小舟には、義父の粂蔵と雇い人が数人、女郎も数人乗った。

川岸にはまだ女たちが残されていたが、富三郎はすぐに引き返してくると告げた。

仙之助は小舟の舳先に立って、竿を器用に扱いながら進む。最初はぎこちなかったが、すぐに舟を操る勘を取り戻した。

しばらくすると、先ほどよりも大きな爆発音がして、背後に火柱が上がった。
「きゃあああああ」

今度の叫声は小舟に乗った神風楼の女郎だった。

水面にオレンジ色の火柱が映り、火の粉が飛んでくる。

仙之助は、ただ前だけを見て必死に竿を操った。

次の瞬間、ふいに小舟が大きく揺れた。

仙之助は危うく振り落とされそうになり、舳先にしゃがみ込んだ。

振り返ると、女郎がひとり、水に飛び込んだのだった。火の粉が降りかかる中、恐怖でいたたまれなくなったのだろう。
「待っておくれよ」

もうひとりの女郎が立ち上がろうとした。
「駄目だ、駄目だ、落ち着け。対岸まであと少しだ」

仙之助は必死に女たちを制した。橋の上からも幾人もの女たちが身を投げていた。その様子を見て、気が動乱したのだろう。

水に飛び込んだ女郎を助けようとしたが、沈んでしまったのか、もう姿はなかった。

燃える港崎遊郭

対岸にも大勢の人たちが集まっていた。群衆を見ていた女郎のひとりが声を上げた。
「愛之助さま」

起き抜けの浴衣姿ばかりの中、鮮やかな薄紫色の着物をまとっていた。

神風楼に足繁く通っていた異人の贔屓だったフジという女郎だった。日本語の達者なその異人が、愛之助と名乗っていたことを仙之助は思い出した。

意中の異人を群衆の中に見つけたのだろうか。

次の瞬間、薄紫色の着物がひらりと舞った。

仙之助はひやりとしたが、まもなく、水面に広がった着物の中からフジは顔を出し、小舟の方をちらっと見ると、器用にすいすいと泳いでいく。海辺の育ちだったのだろうか。

小舟より先に岸辺に辿り着くと、そのままフジは群衆の中に姿を消した。

富三郎の小舟は一足先に到着していた。岸辺に残した女たちを迎えに再び舟を出そうとしたが、真っ赤に燃える港崎(みよざき)遊郭にもはや近づくことはできなかった。

炎に包まれたおもかげ橋が焼け落ちるのが見えた。

富三郎は炎に向かって合掌した。富三郎の機転がなかったら、仙之助たちの命も危うかったことになる。仙之助は急に恐ろしくなり、膝がガクガクと震えるのを感じていた。

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次回更新日 2021年9月19日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお