山口由美
2022年07月31日更新

仙之助編 八の十一

しばらくすると、陽が少し陰り始めた。夕刻になったのではない。崖の上にもくもくと白い雲が湧き上がったのだった。

頭上はまだ晴れているのに、雲の中では雨が降っている。

細かい霧雨は、やがてクレマチス号の甲板にも降り注いだ。

ラニがぽつんとつぶやいた。
「キリフネか」
「ハワイ語ですか?」
「そうだ。Drizzle(霧雨)の意味だ」
「本当に?日本語ではキリサメと呼びます」
「キリフネとキリサメか、似ているな」
「はい、驚きました」
「日本とハワイは太平洋を隔てて隣同士なのだから、驚くこともないのかもしれないな」
「隣同士……、そうですね。私たちは隣人なのですね」

仙之助は横浜に来てから、太平洋を挟んでアメリカが隣国であることを意識するようになったが、本当の隣国はアメリカではなく、ハワイ王国だったのだ。

次の瞬間、霧雨の先に七色のアーチが見えた。
Rainbow、Rainbow

イルカがあらわれた時と同じように乗組員たちは口々に叫んだ。

虹だった。

仙之助もあっけにとられたように見上げた。故郷の大曽根村や横浜で夕立の後などに見ることはあったが、これほど美しい虹を見たことはなかった。

ハワイの虹

緑の崖が連なる海岸と雲と虹の競演は、極楽の風景としか言いようがない。仙之助は涙が頬を伝わっていることに驚いていた。悲しいのでも、悔しいのでもなく、美しさに感動して涙が出るなんて、生まれて初めての経験だった。

頬に降りかかる霧雨に混じった涙を仙之助は慌てて拭い、ラニにたずねた。
「私たちはRainbow(虹)をニジと呼びます。ハワイ語では何と呼ぶのですか」
「アーヌエヌエともアオ・アクアとも呼ぶ」
「ひとつの言葉ではないのですか」
「アーヌエヌエとは大きくて鮮やかなもの、アオ・アクアには神々の雲という意味がある。それだけではない、どの場所にどんな虹が出るかで、さまざまな呼び名がある。ウアココ、プナケア、カーヒリ、ハカハカエア……
「待ってください。そんなにたくさんあるのですか。覚えられません」
「ハハハハ、ひとつだけ、アオ・アクアと覚えておくといい。神々の雲、つまり神々の領域と人間の世界を結ぶ架け橋ということだ。ハワイの虹を語るのに最もふさわしいと俺は思っている。ハワイが極楽である証かもしれないな」

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次回更新日 2022年8月7日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお