山口由美
2023年05月28日更新

仙之助編 十二の五

「コノヨノゴクラクジョウド……

富三郎のつぶやきに仙之助が答えた。
「ハワイのことを喩える、ヴァン・リードさんの口癖だったな」
「みなが天竺とか唐と呼ぶのに、どこであんな言葉を覚えたんでしょう」
「そうだな。だが、本当にここは極楽浄土だろう」
「はい。あの世の極楽浄土に行かずにすんでよかったです」

二人は笑い合った。
「ヴァン・リードさんは達者でおられるか」
「もちろんです。このたびの旅立ちでは、船の手配から役人とのやりとりまで東奔西走しておられました」
「出発までにだいぶ手間取ったようだな」
「船が出港を待つ間に、奉行所のお役人が入れ替わり、大変だったようです」
「どういう意味だ」
「私たちはもう船に乗り込んでいたのでよくわかりません。何でも幕府からもらった書状が無効になってしまったが、もう待てぬから行けと」
「書状がない……お前たちも密航者なのか」
「さあて。こんなに盛大にお迎え下さっているのだから問題はないのでしょう」
「王様の客人扱いだからな」
「入港と同時に贈り物がきたのには驚きました」
「気の良い王様だからな」

釣りをするカメハメハ5世

「えっ……、王様をご存じなのですか」
「いや、いや、何でもない。ところで、父上は達者でおられるか」
「はい、ますます意気盛んで商売の再興に努めておられます」
「神風楼は再建したのか」
「いや、まだですが、土地の取得の算段をしておられました」
「父上ならば、心配はいらないな」
「仙之助さんは横浜に帰るのですか。それとも、ハワイで一旗揚げるのですか」
「そんな話もしていたな。あの勇ましい少年……何と言ったか」
「マムシの市ですか」
「まだ、ほんの子供だろう。家族はいないのか」
「数えの十三で、このたびの最年少です。たったひとりで応募してきたそうです。でも、仙之助さんが捕鯨船に乗ったのもたいしてかわらない年でしたよね」
「私は元服の年齢だったぞ」
「体の大きな異人たちに混じると、ほんの子供にしか見えず、心配しましたよ。それだけに見違えました。再会できて……、本当に良かった」

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次回更新日 2023年6月4日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお