山口由美
2023年10月15日更新

仙之助編 十四の一

一八六九年七月下旬、仙之助がクレマチス号で航海し、マッコウクジラと挌闘していた頃、牧野富三郎が再三送った救出嘆願書に対して、ようやく政府が具体的に動き始めた。

ハワイ王国に派遣する政府使節の正使として、薩摩藩出身の上野敬介景範(かげのり)が選ばれたのである。後に初代の横浜税関長、イギリス公使などを歴任する上野は、当時、弱冠二十五歳ながら、語学に長け、外国との交渉に実績があった。命じられた身分は特命全権公使に相当する。随員に選ばれた年上の三浦甫一も経験豊かな人物だった。

同年十月三十一日、上野は外輪船ジャパン号で横浜を発った。晩秋の太平洋は荒れたが、十一月十七日、サンフランシスコに無事到着した。横浜からハワイに行くには、定期航路はサンフランシスコ経由しかなかったのと、事前交渉のためだった。

外輪船が金門湾に入ると、砲声がとどろき、桟橋には多くの人たちが整列して歓迎した。特命全権公使の使節は、国賓待遇で迎えられたのだった。丁髷を結い、羽織袴に大小の刀を刺した上野は、堂々たる武士の風格を備えていた。

随員の三浦とは、サンフランシスコで合流した。一足早くサンフランシスコに入った彼は、髷を落とし、散切りの髪を後ろにまとめていた。

上野と三浦が帆船イサン・アルレン号に乗船し、出発したのは、同年十二月五日。再び二十日余りの太平洋を渡る船旅で、ホノルル港に到着したのは、クリスマスが終わり、暮れも押し迫った十二月二十七日だった。

仙之助が署名をした最初の嘆願書から、ちょうど一年の月日が流れていた。

牧野富三郎は、桟橋に立ち、感慨深い思いで使節一行の到着を出迎えた。コウラウ耕地からも数人の代表者が駆けつけていた。

サイオト号でホノルルに到着した日のことが遠い昔のように思えた。

あの時よりも、日本からの使節を迎える今の方がよほど盛大な歓迎だった。仲間を失って、ようやく自分たちの存在が認められたことに富三郎は複雑な心境だった。だが、ハワイ王国の歓待は、問題の解決のためにはありがたいことだった。

使節の宿舎には、ヌアアウ通りにあるエマ女王の離宮があてられた。

その年、イギリスのヴィクトリア女王の次男エディンバラ公爵が国賓としてハワイを訪れた際、部屋を増築して宿舎にした宮殿である。公爵の滞在した部屋がそのまま彼らの居室となった。まさに最大級の待遇ということだろう。

桟橋では、上野と三浦はハワイ王国の政府関係者に取り囲まれ、富三郎は彼らに近づくことも声をかけることも出来なかったが、その日の夕方に近くになって、あらためて桟橋に出迎えた移民たちと共に離宮での面会を許された。

離宮は、到着後の遠足で仙之助と共に見物に出かけた思い出の場所でもある。その後も、コウラウ耕地を往復するたびに前を通った。だが、富三郎は一度も中に入ったことはなかった。このようなかたちで足を踏み入れる日が来るとは思わなかった。

瀟洒な建物を見上げて、富三郎はふうと深呼吸をした。

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次回更新日 2023年10月22日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

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