山口由美
2024年01月21日更新

仙之助編 十五の二

二年ぶりの神風楼は、何もかもが変わっていた。

仙之助がクレマチス号で出帆したのは、豚屋火事からの復興前だったから、吉原町遊郭に再建された新しい神風楼への道のりは、一人ではわからなかったに違いない。

以前は岩亀楼が異人客を独占していたので、馴染みの客がこっそり通ってくるだけだったが、明治維新の年に粂蔵が役所にはたらきかけて神風楼でもおおっぴらに異人客をとれるようになってからは船員たちにも人気の店になっていた。

だが、なにより驚いたのは、家族が増えていたことだった。

養父の山口粂蔵の故郷、下野国の石橋から呼び寄せられ、養女になった女性だった。

仙之助の四歳年上の二二歳、名前をトメといった。

粂蔵に紹介されたトメは、居住まいを正すと仙之助に挨拶をした。
「はじめまして。トメと申します。あなたが捕鯨船に乗って天竺に行っていたっていう、噂の仙之助さんだね。ご無事にお帰りになられて本当に良かった」

何とも妖艶な美人だった。地味な小紋の普段着なのに、パッとあたりを華やかにする雰囲気がある。年齢以上に年上に見えるのは、物怖じしない態度のせいもあるのだろう。

22歳のトメ

「は、はじめまして」

押し出しの強さに気圧されながら仙之助は返事をした。
「一人で異国に行くなんて、どんな屈強なお方かと思いきや、こんな細面の美男子とは、驚きました。さぞかし異国でも、おもてになったでしょう」

仙之助が返事に窮していると、粂蔵が制して言った。
「年下の仙之助をあんまりからかうものじゃないぞ、トメ」

そう言いながら、粂蔵は上機嫌に笑っている。

トメのこうした世慣れたところが、粂蔵は気に入っているのだろう。遊郭の女将として、うってつけといえた。まだ横浜に来て日が浅いのに、店の采配にも腕をふるっているという。

粂蔵には実の娘も二人いて、長女はテツ、次女はヒサといったが、二人ともまだ年若く、遊郭を取り仕切るような才覚は感じられなかった。

粂蔵がトメに目をつけて横浜に呼び寄せたのは、時代の潮目にあって、商売のさらなる拡大を目論んでいたからでもあった。

大政奉還から二年、明治という新しい時代がようやく輪郭をあらわそうとしていた。

人々の生活は、江戸時代と変わらなかったが、政府の中枢では、近代化に向けての動きが始まっていた。中心となったのが伊藤博文と大隈重信を中心とする改革派だった。

なかでも当面の大事業とされたのが鉄道の敷設だった。

全国に鉄道を敷く計画の手始めとして、新橋・横浜間の建設が決定したのが明治二年の十二月。まさに仙之助が帰国した時期にあたる。

技術と資金を援助したのはイギリスだった。鉄道は反対派も多く、伊藤と大隈は暗殺の危機さえあったと言うが、駐日公使ハリー・パークスの援助により計画は進められた。

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次回更新日 2024年1月28日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお