山口由美
2022年06月26日更新

仙之助編 八の六

船長としてのダニエルの毅然とした姿への憧憬と航海の不安が入り交じり、仙之助は何と言葉を返したらいいかわからなくなった。
「ジョンセン、お前はもう一人前の船乗りだ。そうだな」
「は、はい」
「ならば、嵐に遭う覚悟はしておけ。嵐は、必ず来るものと思っておけ。稀に運の良い航海もあるが、太平洋は……、美しいが、厳しい海だ」
「はい」

仙之助は、仙太郎が元気だった頃、ヴァンリードの事務所で太平洋に思いを馳せたことを思い出していた。彼の冒険の舞台はいつも太平洋だった。だからよく太平洋の話をした。

太平洋ほど、島のない大海原が続く海はない。その大海を挟んで、日本とアメリカは対峙し、中間地点にハワイがある。それがヴァンリードの知る世界であり、ジョン万次郎の生きた世界であり、仙之助が憧れる異国そのものでもあった。

長崎にいれば、上海や香港、その先の欧州に目が向いたのかもしれない。だが、横浜で生まれ育った仙之助にとって、世界に開かれた窓は太平洋しかなかった。

ダニエルは緊張した面持ちの仙之助の背中をぽんぽんと叩いた。
「太平洋が吠える冬には、まだ間がある。Westerlies(偏西風)がほどよく吹くいい季節だ。安心しろ」

クレマチス号は、帆にたっぷりの風をはらんで、アバチャ湾を出た。

それが偏西風だった。太平洋を東から西に吹く風は、夏に弱まり、冬に強くなる。

冬は強い偏西風に乗って船は速く進むが、そのぶん海も荒れる。秋はまさに良い季節と言えた。偏西風にそのまま乗っていくと、北米大陸に至る。クレマチス号は西に進路をとりつつ、途中から南下してハワイをめざすことになる。

季節は秋が深まっていったが、緯度は下がっていくので、むしろ吹く風は少しずつ温かくなってくるように感じられた。

波は日によって高くなった。雨の降る日もあった。

右に左に揉まれるような激しい横揺れが続くこともあった。

だが、それは太平洋では順調な航海であることを意味していた。

海が凪いで、風がなくなると帆船は動力を失ってしまう。

ある日、不気味なほど、風が止まったことがあった。太平洋の偏西風から外れたことを意味していた。ハワイに辿り着くには北西の風に乗らなければならない。

海

数日後、クレマチス号の帆に待ちに待った風が吹き込んだ。
Trade wind(貿易風)だぞ」

船上が沸き立った。ハワイに向かって吹く北西の風のことだった。
「モアエ・レフア……」

ラニだけは、ハワイ語で貿易風を意味する言葉を感慨深げにつぶやいていた。

それはまた、ハワイの心地よい気候を象徴する風でもあると、仙之助に教えてくれた。

次回更新日 2022年7月3日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお