山口由美
2023年01月29日更新

仙之助編 十の十二

お産経験のあるまつが助手役になり、富三郎はリー医師の指示を必死に聞き取り、とみとまつに伝えた。夫の金太郎は、ほかの男たちと共に心配そうに船室の前で待った。
 Push,Push(いきんで、いきんで)」
「う、う、ううーん」
 Good,Good one more,push(いいぞ、いいぞ、もう一度、いきんで)」
「ううーん。うーん、ああああ」

リー医師の声と、とみのいきむ声が聞こえてくる頻度が短くなる。

しばらくの沈黙があり、次の瞬間、元気な産声が聞こえてきた。
「ほぎゃあ、おぎゃあ、ほぎゃあ、おぎゃあ」
 Good Job,Healthy boy(よくやった。元気な男の子だよ)」

リー医師は、赤ん坊の体を丁寧にぬぐい、裸の下半身をとみに見せた。
「男の子……
 Yes,boy

リー医師がにっこり笑うと、とみも安心して笑顔を見せた。

そして、赤ん坊を白い布でくるむと、とみに抱かせた。和吉の遺体を包んだのと同じマストの帆布だった。サイオト号の船上では布と言えば、余分の帆布しかなかったのである。
「ほぎゃあ、ほぎゃあ」

産声を聞いた男たちが歓声を上げていた。
「でかしたぞ」
「めでたい、めでたい」

まつは赤ん坊を抱いて船室から出て来ると、父親の金太郎に抱かせた。

相好を崩す金太郎を仲間たちが取り囲む。

とりわけ安堵したのが富三郎だった。

長年憧れ、待ち焦がれた旅立ちだったが、旅慣れない者たちを集めたことが正しかったのか、もちろんその采配をしたのはユージン・ヴァン・リードではあったが、和吉の死に直面し、富三郎は自責の念にかられていた。

赤ん坊の産声は、そうした思いをすべて吹き飛ばしてくれた。

ひとつの命が消えた日に、もうひとつの命が生まれる。何という運命の航海だろう。

金太郎は、富三郎に名付け親になってほしいと頼んできた。
「洋太郎はどうだ。太平洋の真ん中で生まれた子だからな」
「太平洋の洋……
「そうだ」
「良い名前をありがとうございます」

最初のハワイ移民を両親に持ち、ハワイ近くの太平洋上で生まれた洋太郎は、後に最初の日系二世と呼ばれることになる。

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次回更新日 2023年2月5日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお