山口由美
2022年04月17日更新

仙之助編 七の八

「あ、危ない」

仙之助は叫んだ。

ジョーイの乗った小舟がマッコウクジラの頭上に乗り上げたのだ。

次の瞬間、鯨が巨大な四角い頭をもたげた。小舟はあやうく転覆しかかったが、器用に鯨の頭を乗り越えて反対側に廻った。鯨の急所に銛を差し込むには、ぎりぎりまで接近しなければならない。
「ジョーイは小舟を操るのが上手い。そう簡単に海には落ちないから安心しろ」

後ろから仙之助の肩を叩いたのは、先輩のラニだった。
「でも、ジョーイでなければ、危なかったかもしれないな」
「鯨を仕留め損ねて海に落ちることもあるのですか」
「そりゃあ、あるさ。そのまま浮かんでこなかった操舵手もたくさん見ている」
……
「捕鯨は命を賭けた危ない仕事だ。鯨が俺たちの船に体当たりすることもある」
「そうなんですね」

仙之助は、緊張した面持ちでラニを見つめた。その時、静寂を破る大声が甲板に響いた。
「ワオオオオオオ、行け、行け、行け」
「やったぞ、もう一息だ」

ジョーイの投げた銛が鯨に命中したのである。

鯨に突き刺さった銛には丈夫な綱がついている。ジョーイはこれをしっかりと持ち、小舟の船尾にあるLogger head銛綱(せんこう)柱)と呼ばれる柱にくくりつけた。

銛の刺さった鯨はのたうちまわった。

クジラを仕留める瞬間

鯨とつながれた綱は摩擦でギシギシと音を立て、熱を帯びて煙が上がった。

操舵手が海水をかけて摩擦熱を冷やす。

鯨の巨大な尾がバンバンと水を叩く。人と鯨の命を賭けた闘いだった。

仲間の小舟から放った銛がもう一つ命中すると、鯨の動きが緩慢になった。

さらにもう一つ銛が打ち込まれると鯨は完全に動かなくなった。

絶命したのだろうか。

銛の刺さったところから赤い血がどくどくと流れ、たちまちのうちに海を赤く染めた。

闘いの終焉だった。

ジョーイが誇らしげに鯨の巨体に乗り、血まみれの頭に綱を通した。

綱は再び銛綱柱にくくりつけられる。

三艘の小舟は、綱で鯨を牽引しながらゆっくりとクレマチス号に向かって動き始めた。鯨がよほど重いのだろう。操舵手たちは懸命に漕いでいるのに、なかなか前に進まない。甲板に残った乗組員たちも声をかけて彼らを鼓舞した。

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次回更新日 2022年4月24日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお