山口由美
2022年07月24日更新

仙之助編 八の十

陽が高くなるにつれ、天候は落ち着き、風に乗った雲が去り、真っ青な空が広がった。

波も静かだった。クレマチス号はゆったりと、カウアイ島の沿岸を航行した。

鮮やかな緑に輝く島影は、近づくにつれ、異なる表情を見せ始めた。

刃物のように鋭く切り立った崖が垂直に幾重にも連なっている。連なった崖の下には、道も集落もなく、斜面はそのままストンと紺碧の海に落ちる。

何という荒々しい海岸なのだろう。だが、自然の造形は言葉を失うほど美しかった。

仙之助は呆然と、見たこともない景観に見入っていた。

故郷の海域に入り、穏やかな笑顔のラニにたずねた。
「どこに……、人は住んでいるのですか」
「この海岸に人は住んでいない」
「えっ?」
「ナパリに人は住めない」
「ナパリとはハワイの言葉ですか」
「崖という意味だ。この海岸には崖しかない。人が住む場所ではない」
「ナパリ……
「そう、ナパリ海岸と呼ばれている」
「カウアイは人の住まない島なのですか」
「集落は島の反対側にある」
「ホノルルはどこにあるのですか」
「カウアイの隣にあるオアフという島だ」

突然、船の前方に乗組員たちが集まり始めた。
 Dolphin、Dolphin

彼らは、仙之助の聞いたことのない単語を口々に発している。ラニが指さす方向の波間に黒い丸い背中が見えた。
「あ、鯨ですね。小鯨かな」
「ハハハハ、鯨じゃない。お前はDolphinを見たことがないのか」

まもなく黒い生き物が大きくジャンプした。あきらかに小さく俊敏な姿を見て、仙之助は、ようやくそれが鯨ではないことを理解した。

イルカという日本語など、知るよしもない仙之助は、Dolphinという英語の次に、ラニが教えてくれたハワイ語のナイアを覚えた。

何頭ものイルカが船の周囲に集まってきた。

群青色に輝く海はどこまでも透明で、黒い流線型の体ですいすいと船の先端を泳ぐ姿が甲板の上から手に取るように見えた。

クレマチス号は、イルカの群れと併走した。彼らは船を遊び相手にしているようでもあり、めざすホノルルへの水先案内のようでもあった。

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次回更新日 2022年7月31日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお