山口由美
2020年07月05日更新
画 しゅんしゅん

仙之助編 一の五

アーネスト・サトウが日本に赴任して二年の月日が流れた。

薩摩藩との交渉に同行したニール公使が帰任した後、着任したオールコック公使は、誰に対しても友好的だったが、ことのほかサトウのことを気にかけてくれた。何より彼がうれしかったのは、書類整理の事務仕事から解放されて、日本語の勉強に好きなだけ時間を使えるようになったことだった。

サトウとウィリスが、外国人居留地と日本が居住する地域との間に挟まれた木造家屋に住まいを定めたのは、その頃のことだ。

三棟続きの長屋で、それぞれが一棟を自室とした。小さな縁側があって、その先に低い植木が数本植えられた坪庭があった。いかにも華奢でこじんまりした伝統的な日本家屋で、西欧人の感覚からすれば人形の家だった。仲間たちは大男のウィリスがどうやってそこに暮らしているのか、面白がってよく訊ねた。

サトウは懸命に日本語の勉強に励んだ。成仏寺で学んでいた頃に知り合った日本人医師など、三人の優秀な教師を得て、彼の日本語は飛躍的に進歩した。

アーネスト・サトウ

一八六四年の六月、サトウのもとに思いがけない知らせがもたらされた。

前年、イギリスに密航した長州藩の若い武士たちが、密かに帰国しているという。長州藩が彼らを送ったのは、攘夷を成し遂げるために敵を知るべきと考えたからだが、若い武士たちは、攘夷思想の無謀さに目覚め、藩主に開国を説得したいと考えていた。彼らがロンドンで、自分の母校、ロンドンのユニバーシティー・カレッジに学んだと知り、サトウは、運命的な親近感を感じた。

外国人排斥の攘夷思想を掲げる勢力をねじ伏せたいと考えていたイギリスにとって、薩摩藩と共に重要な相手が長州藩だった。

オールコット公使に顛末を告げると、居留地のホテルに言葉のわからない外国人のふりをしてしばらく滞在させるようにと指示があった。

若い武士のひとり、伊藤俊輔と名乗る男とサトウは、意気投合した。

イギリスは軍艦で彼らを長州に送り届けることに決めたが、その同行を許されたことにサトウは喜んだ。居留地の外国人は、日本国内を自由に旅することが許されない。薩摩の時もそうであったが、理由は何であれ、未知の土地に行けることは無上の喜びだった。旅の途中、サトウと伊藤は、日本語と英語を交えながら、ユニーバーシティー・カレッジ界隈のパブの親父の噂話から、この国の未来と世界情勢まで、さまざまな話をした。

伊藤たちは小舟に乗り換えて上陸した。彼らは、藩主に斬首されるだろうと噂する者が多かったけれど、眼光鋭いこの男にただならぬ強運を感じていた。

長州藩との交渉の文書は、サトウも翻訳を手伝った。

この頃から、日本語の巧みな遣い手として、アーネスト・サトウのことが居留地で知られるようになっていた。

▼ 続きを読む

次回更新日 2020年7月12日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお