- 2019年03月08日更新
- 画 しゅんしゅん
一の五
祐司の実家は、父方が横浜の出身だった。
彼自身、あまり記憶はないが、生まれは横浜と聞いている。実家の菩提寺も横浜にある。だが、山口家が横浜の出身だったとは聞いたことがない。
創業者の仙之助も、堅吉と千代子も、そして妻の裕子もすべて墓地は箱根にある。仙之助が亡くなったときに、山口家の墓として山野を切り開き、その後、近隣の寺が管理するようになった。
虎造の言葉は、次から次へと謎をたたみかけてくる。
コーヒーを美味そうに一口飲むと、彼は言った。
「いや、それにしても感慨深いですな。富岳館でコーヒーを頂けるとはね。これは、なかなか深みがあって美味しい」
「お褒め頂き、恐縮です」
「ところで、本当に神風楼のことはご存じない?」
「は、はい」
「仙之助さんが縁を切られたんだから、しかたないですな」
「はあ、申し訳ありません」
祐司は、言われたことの意味もわからず、答えた。
「あなたが謝ることはない。あれはいつだったかな。富岳館が国賓のロシア皇太子をお迎えすることになって、神風楼の者たちも富岳館の名誉だと喜んでおったのです」
「ロシアのニコライ皇太子をお迎えするために、フェニックスハウスを建てたと聞いております。ところが、皇太子は大津事件で暴漢に襲われ、訪問はキャンセルになりました」
「そう、残念なことだった。でも、それでホテルの名声は広まったわけですな。だが、それからしばらくして、仙之助は神風楼と距離をおきたがるようになったそうです。国賓の泊まる名門ホテルの出自が遊郭であるのは、まずいと思ったんでしょうね」
「遊郭ですか?」
祐希は、思わず声を潜めて聞き返した。
「名門ホテルの出自が遊郭では恥ずかしいかね」
虎造は、鋭い視線を向けた。
「いえ、そんなことは。ただ、初めて聞いたものですから」
「仙之助の娘たちは、ホテルの常連客だったイギリス人の偉い先生の影響でクリスチャンになったそうですな。それ以降、遊郭のことをことさら疎んで、父親の仙之助に縁を切るよう迫ったと、ワシらは、そんなふうに聞いております」
「娘たちとは、孝子、貞子、美香の三姉妹ですか」
「君の義父上は、貞子の婿さんだったかな」
「はい」
「貞子さんは大人しい方じゃった。美香さんも、自分から波風立てる人じゃない。そんなことを父親に迫るのは、長女の孝子さんに違いないがね。いやいや、亡くなった方を悪く言うのはいかんね。いずれにしても、昔の話です」