山口由美
2019年07月29日更新
画 しゅんしゅん

二の六

盧溝橋ろこうきょう事件のおきた年、日中戦争に出征したのを皮切りに、太平洋戦争の終戦までに、四郎はあわせて三度、従軍している。それも上級軍人としてではない。會田家のほかの親戚は将校だったのに、四郎のような経歴であれば、如才なく立ち回れば、前線に行くことはなかったはずだと、何度となく寿子は言う。

寿子にとって、夫の四郎は、好きになれない伴侶だった。

一目会った時からそうだった。

しかし、昭和初期、孤児の少女に縁談を拒否することなど、出来るわけがなかった。しかも、慶應義塾大学を出て、銀行に勤める四郎は、釣書としては文句のつけようがなかった。

新婚旅行で熱海に行った時、周囲が気を利かせて用意してくれた旅館の予約を断って、自分で宿を探すと言い張り、結局は、泊まるところが見つからなくて、みすぼらしい旅館の布団部屋のようなところに泊まった泣き言を何度、祐司は聞かされたことだろう。

要領よく立ち回ることを嫌い、我が道を行く。それでも、体が丈夫で運の強い四郎は、無事帰還しては、また戦争に赴いた。

だが、戦争が終われば、恩給がつくことくらいしか、従軍したことの意味は見出せなくなった。働き盛りの年齢を棒に振った四郎は、戦後、銀行に戻ってからも、たいした役職につくこともなく定年を迎えた。そして、會田の商売とも関わりを持たなかった。

祐司は、四郎と寿子の次男になる。三歳年上の長男と、十歳年下の三男がいて、三人も男の子がいるからと、婿入りを承諾したのだが、祐司が結婚した五年後、長男を不慮の事故で失った。

それでも寿子は、生来明るく朗らかで笑顔を絶やさない。

若い頃は、映画女優を思わせる美貌でもあった。華やかで美しいものが好きで、いつも身ぎれいに化粧をしている。
「あなたのお祖父様はね、ドイツに留学したドクトル・メヂチーネだったのよ」

その台詞をことあるたびに寿子は言う。ドクトル・メヂチーネとは、ドイツ語で医学博士を言うらしかった。

心の中には、両親が生きていたならば、もっと違う人生があったはずだという想いがあったに違いない。

寿子の性格と容貌を最も受け継いだのが祐司であった。

長男を亡くしてからは、祐司を婿入りさせたことを悔やんだこともあったのだろうが、それでも恨み言を言わないのは、祐司が縁を持った富士屋ホテルの華やぎは、寿子の人生にも彩りを与えたからだった。婚約が整い、初めて家族揃って箱根に招かれた時、寿子は、とても幸せそうで、誇らしげな表情をしていた。

一人でたたずむ若い女性

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次回更新日 2019年8月25日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお