山口由美
2024年12月08日更新

仙之助編 十八の十

岩倉使節団の一行が投宿していると思われるアーリントンホテルは、バーモンド通りに面して建つ、見上げるような建物だった。場所はほどなくわかったが、サンフランシスコの時のようなお祭り騒ぎがある訳ではない。ここで待っていて、本当に一行と会えるのだろうか。仙之助と富三郎は、戸惑ったような面持ちで顔を見合わせた。

サンフランシスコと違い、春浅いワシントンは寒さも厳しかった。

二人は界隈をしばらく行ったり来たりし、どうしたものか、再び顔を見合わせた瞬間のことだった。前方から馬車が見えてきた。後ろには、何台もの馬車が連なっている。
「あっ……
「あれはもしや」

先頭の馬車がアーリントンホテルの前に停まった。

目の前で馬車を降りた人物は、神風楼で見覚えのある顔だった。

仙之助は興奮で頬が熱くなるのを感じていた。
「伊藤様……

伊藤博文に間違いなかった。

だが、仙之助の体は凍り付いたようになって、声をあげることもできなくなった。目の前にいる伊藤博文は、確かに本人なのだが、神風楼で遊女に戯れ言を言う伊藤とは全く違う表情をしていた。国を動かす人物の威厳とでも言ったらいいのだろうか。自分が知っているのは、この人の裏の顔なのだと仙之助は思った。

そもそも相手が自分のことを覚えているかどうかもわからない。いや、万が一覚えていたとしても、ここで遊郭の倅と名乗ることは憚られる気がして、気弱な気持ちがもたげてくる。不審者と思われるだけなのではないか。
「仙之助さん」
富三郎が促すように声をかけた。
「あ、ああ」
その時には、もう伊藤はアーリントンホテルの玄関に消えていた。
「仙之助さん」
富三郎が再び声をかけた。

仙之助は大きくため息をついた後、小さな声でつぶやいた。
「また、せっかくの機会を逃してしまった。そのために大陸横断してきたのに」
「声をかけられるのを躊躇ったお気持ちはわかります。でも、千載一遇の機会を逃す訳には……。使節団は確かにここにおられるのですから」
「わかっている」

仙之助は、この先、自分は何をしたいのだろうと自問自答した。伊藤の従者になれたとして、それで何をしたいのだろう。遊郭の倅であることの躊躇以上に、眼光鋭い伊藤の顔を見て、相手を納得させるだけの目的を持たないことに気づいたのだった。

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次回更新日 2024年12月15日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお