

- 2025年02月02日更新
仙之助編 十九の五
午後五時頃、お茶と軽食が伊藤博文の私室に用意された。テーブルについたのは仙之助と富三郎と三人だけだった。送別の宴はすでに催されたものらしい。
「サンフランシスコまでのご一行は何名いらっしゃるのですか」
「今夜出発するのは、おまえたちと私だけだ。大使館の随行員は、今朝、大久保と先に発った。ユニオン・パシフィック鉄道の起点であるオマハで彼らと合流する手はずになっている。それまでは、よろしく頼むぞ」
「えっ、そうですか……。は、はい」
思わぬ返答に仙之助は狼狽しつつ答えた。伊藤はなぜ大久保と行動をともにせず、仙之助と富三郎を従者に雇い、別の列車で発つことにしたのだろう。
「お前たち、語学が達者でこちらの地理にも通じているのであろう。大船に乗ったつもりでいるぞ。ハッハハハ」
伊藤は、豪快に笑って仙之助の背中を叩いた。
仙之助は富三郎と顔を見合わせて、小さな声で答えた。
「はい、お、お任せ下さい」
心の中では不安が逆巻いていた。軽い気持ちで従者に名乗りをあげたのは、林之助たち使節団の従者に特段の任務も責任もなさそうだったからだ。まさか伊藤と三人だけの道中になるとは思いもよらなかった。もし途中で何か事件や事故があって、国の大事を預かる伊藤に不測の事態があったらどうすればいいのだろう。
まもなく出発の時刻となった。
彼らが乗る鉄道は、ワシントンのユニオン駅を午後八時に出発する。ホテルの玄関に横付けされた馬車に荷物が積み込まれ、伊藤に続いて仙之助と富三郎も乗り込んだ。
仙之助は馬車に揺られている間、三人だけの旅だと言ったのは、ほんの軽口であったと笑ってくれることを願っていた。だが、伊藤は腕組みをしたまま何も話さない。
降り立ったユニオン駅も人影はまばらだった。見送りの者も留守を預かる大使随行の久米邦武や中山信彬など数少なかった。全権大使の岩倉具視らしき姿もない。アメリカ政府側らしき人物は誰もいない。到着時の歓迎ぶりとはだいぶ違っていた。
仙之助と富三郎は、一等車のボーイに命じて荷物を運び込ませた。車両に足を踏み入れると、自分たちが乗っていた三等車とは全く違う豪華な空間があって目を見張った。絨毯敷きの車両には、テーブルを挟んで豪華な椅子が置かれていて、アーリントンホテルのロビーをこぢんまりとさせたような趣である。
仙之助は手渡された切符をあらためて見た。その椅子席のひとつが自分の席であることは間違いなさそうだ。上機嫌の伊藤が乗り込んできて、仙之助の前の席に座った。
手招きで座れと促され、仙之助と富三郎も席についた。伊藤の顔を直視するのも憚られて、窓から闇に沈むプラットホームに見入っていた。
しばらくすると汽笛が鳴り、ゴトゴトと列車が動き出した。