- 2020年12月13日更新
- 画 しゅんしゅん
仙之助編 二の八
仙之助は、中浜万次郎の『英米対話捷径』の例文を必死に思い出して言った。
「アイ・ドント・ノー・フー・ユー・アー
( I don’t know who you are /私はそなたが誰であるか知りません)」
すると、異人は答えた。
「 My name is Eugene Van Reed( 私の名前はユージン・ヴァン・リードである)」
仙之助は、相手が名を名乗っていることを理解した。
「ユー( You )、ユージン・ヴァン・リード」
そう返すと、異人はにっこり笑って答えた。
「 Yes, I am Eugene Van Reed(はい、私はユージン・ヴァン・リードです)。
What is your name(おまえの名前は何という)?」
習ったおぼえのない台詞だったが、名を名乗れと言われていると察した。
「 I am ヤマグチセンノスケ」
すると、異人は先ほどの言葉を繰り返した。
「 Good Boy, Good Job(いい子だ、よくできた)」
次に相手は、片言の日本語で返してきた。
「ワタクシハ、アキンドデアル」
戸惑う仙之助にたたみかけるように言った。
「ワタクシハChristmas Tree ヲウリマス」
「 Christmas Tree ?」
仙之助は、意味のわからない言葉をオウム返しに聞いた。
「 Yes, Christmas Tree 」
異人はそう言って笑い、仙之助を手招きした。表に出てみると、大八車に大きな木が一本載せてあった。植木を商っているのだろうか。
「 I bought many Christmas trees for sell, Yokohama Hotel bought one, Royal British Hotel bought one, Yokohama Cathedral bought one, Gankiro bought one, this is the last one.(私はたくさんのクリスマスツリーを売るために買いました。ヨコハマホテルがひとつ買いました、ロイヤルブリティッシュホテルがひとつ買いました、横浜天主堂がひとつ買いました、岩亀楼がひとつ買いました。これが最後のひとつです)」
仙之助は、岩亀楼とホテルという言葉を聞き逃さなかった。
ホテルというのが、異人が経営する宿屋であることは知っていた。開港後、横浜の居留地にも何軒かの宿屋が開業し、そのような名前が冠されていた。岩亀楼は、言うまでもなく、港崎遊郭で異人の出入りが唯一公に許されていた女郎屋である。
Christmas Tree なる植木をなぜ売りに来たのかは意味不明だったが、異人が出入りするところが好んで買うものなのだろう。ならば、それを異人が伊勢楼に売りに来たというのは、もしかして名誉なことなのではないか。仙之助は思いを巡らせた。