- 2021年04月11日更新
仙之助編 三の八
一八六六年一月、ユージン・ヴァン・リードは、サンフランシスコからホノルルに出帆した。
洋上に吹く風は冷たく、波は高かった。北太平洋の船旅は春の訪れを待つ方がいいことはわかっていたが、そんな悠長なことは言っていられなかった。
太平洋は大西洋よりはるかに広く、島ひとつない大海原がどこまでも続いている。ヨーロッパからアジア諸国を経由して極東に至る航路より、太平洋を渡る方がずっと冒険心に満ちた旅だとヴァン・リードは思っていた。
船旅は冬にしては稀なほど天候に恵まれ、二週間足らずの航海でヴァン・リードを乗せた帆船はホノルルに到着した。
一、二月のハワイは雨の多い季節だが、入港の朝は見事に晴れ上がった。
この季節、雨が降れば肌寒いが、晴れれば真夏とさほど変わらない太陽がさんさんと降り注ぐ。帆船を推し進める貿易風が椰子の葉をゆらしていた。
ほのかに甘い花の香りと生い茂る木々の匂いを含む。海上を吹く風とは匂いが異なった。その風と刺すような熱帯の日差しをヴァン・リードは懐かしく思った。
前年に太平洋を渡った時は補給のための寄港だけだったが、今回は重大な任務があった。ホノルルの町に滞在するのは七年ぶりのことだった。
ハワイ王国はカメハメハ五世の時代が続いていた。
ヴァン・リードが横浜で親しくなった商人グライダーの知己だった外務大臣のワイリーは退任していて、新任のヴァリグニーという外務大臣が迎えてくれた。
ハワイ総領事の話はきちんと引き継がれていて、ヴァン・リードは安堵した。
彼に期待される役目は二つあった。ひとつは、幕府とハワイが親善条約を結ぶこと、そしてそれに基づき、サトウキビ農園の労働者として日本から移民を送り込むことだった。
条約の締結が決まったら、正式にヴァン・リードを総領事に任命するとの約束が取り交わされた。まずはその交渉を任されたのである。
ヴァリグニーは、赤銅色に日焼けした若い男をヴァン・リードに引き合わせた。
簡素な白いシャツを着た男は長髪を後ろに束ねていて、ハワイアンのようにもアジア人のようにも見える。男は意味不明の微笑を浮かべていた。
「 Are you a Japanese(おまえは日本人なのか)?」
ヴァン・リードは横浜で仙之助や仙太郎に話しかけた時のようにゆっくりとわかりやすい英語で問いかけた。謎の微笑は日本人に特有のものだったからだ。
すると男は、微笑を浮かべたまま静かにうなずいた。
「 What is your name(名前を何という)?」
男は間髪入れずに返事をした。
「 My name is Kisaburo」
「キサブロートモウスノカ?」
ヴァン・リードがあやしげな日本を返すと、男は少し驚いたような顔をした。