- 2021年09月19日更新
仙之助編 五の四
豚肉料理店から出火したことから「豚屋火事」と呼ばれた横浜の大火で、港崎遊郭は焼け落ちてしまった。神風楼も伊勢楼もすべて灰燼と化した。
炎はさらに広がり、外国人居留地も焼き尽くしたが、命を落とした者は、港崎遊郭の女郎が圧倒的に多く、四〇〇人にのぼったと伝えられる。一番の大店であった岩亀楼だけで三〇人はくだらなかった。
神風楼も、すべての女郎が助かったわけではない。それでも、富三郎がいてくれたことの幸運は大きかった。強風にあおられて荒れ狂った炎が鎮火したのは、夜もふけた亥の刻(午後十時)過ぎのことだった。
翌朝、粂蔵と仙之助、富三郎は再び小舟を操って港崎遊郭の焼け跡に向かった。
ところどころに黒焦げになった柱が残るだけで、あとは一面の焼け野原だった。
大通りからの位置を頼りに、三人は神風楼があった場所に辿り着いた。粂蔵は焼け跡の中に何かを見つけたようだった。大切そうに拾って手のひらに載せている。
「父上、何か見つかりましたか」
「天照大神の織物の破片だ。ほんの少しだけ焼け残っている」
差し出された糸くずのようなものは象牙色をしていた。
「アマテラスのご尊顔だな」
粂蔵は、そう言うと微笑を浮かべた。
「これは再建までのお守りにしておこう」
「神風楼をまたお建てになるのですか」
仙之助は息せき切ってたずねた。
「当たり前じゃないか。港がある限り、横浜はまだまだ栄えるに決まっている。異人たちも焼け出されて、築地の居留地に避難した者もおるが、すぐに戻ってくるさ。郭はな、血気盛んな男たちにはなくてはならぬものだ。おめおめと石橋になぞ戻れるか」
粂蔵は力強く断言した。
「新しい神風楼は、岩亀楼に負けない、異人に人気の店にするぞ」
「異人でございますか」
「そうだ。おまえの得意のエゲレス言葉で客をたくさん呼び込んでくれ」
「もちろんです」
「仙之助、いっそのこと異国に行ってきてはどうだ」
粂蔵の唐突な言葉に仙之助は驚いた。
「おまえが親しいヴァン・リードさんに頼めば、密航船くらい見つかるだろう。神風楼は必ず再建するが、そうは言っても時間はかかる。無為に時を過ごすことはない」
突然の雲を掴むような粂蔵の提案にぽかんとしている仙之助の横で、富三郎がいち早く反応して興奮気味に言った。
「若旦那、わしも連れて行ってもらえんかね。下働きでも何でもしますから」