山口由美
2021年11月14日更新

仙之助編 五の十二

一八六七(慶応三)年一月、横浜港の埠頭からパリ万博に参加する将軍慶喜の弟、徳川昭武の一行がフランスに向けて旅立った。三一人の随行者の中には、後に日本の資本主義の父と呼ばれ、ホテル業の発展にも尽力した渋沢栄一もいた。

幕府の使節団は、日米修好通商条約の批准のため、一八六〇(万延元)年に派遣された遣米使節、ロンドン万博の開催された一八六三(文久三)年の遣欧使節に次ぐものだった。

幕末、海外渡航をしたのは彼らだけでなない。長州や薩摩も貿易商のトーマス・ブレーク・グラバーらの手引きで留学生を派遣したが、彼らは鎖国の禁を犯す密航者だった。出国にあたっては、それぞれ本名とは異なる変名を名乗り、密かに旅立った。幕府のお墨付きがなければ、国外に出ることは厳しく禁じられていたのである。

横浜などの港が開かれ、外国人の出入りが許される以前は、偶発的な遭難だけが日本人が国境を越える唯一の可能性だった。幕府は大船建造禁止令を出して、海を越えて異国に行ける船の建造さえ禁止していた。

小さな漁船や商船はしばしば遭難し、外国船に助けられた。だが、そうした漂流者の帰国でさえ、ジョン万次郎やジョセフ・ヒコがそうだったように命がけだった。

たとえば、ジョセフ・ヒコと同じ船で遭難した日本人のひとりにサム・パッチと呼ばれた船乗りがいた。彼はペリーの黒船来航の時、軍艦サスケハナ号に乗組員として乗船していたと伝えられる。念願の母国に上陸もしている。だが、鎖国の禁を犯したことの恐ろしさに、ただ怯えて土下座をしていたという。幕府の役人から帰国を認められたものの、結局、アメリカに戻っている。帰国後の身の安全が不安だったのだろう。

ヴァン・リードがハワイで出会ったキサブローも帰国できずにいた漂流者だった。ハワイ王国の日本総領事という肩書きのあるヴァン・リードの随行者として首尾よく帰国したが、もしあのまま、ハワイにいたら帰国は叶わなかったに違いない。

ジョン万次郎と同じ船に乗っていた者たちも、彼以外はハワイで人生を終えている。彼がヴァン・リードと出会った当時も、ハワイには日本人の漂流者が何人かいたという。ジョン万次郎やジョセフ・ヒコのように強い意志を持って帰国した者は数少ない例外だったのだ。

密航者

幕末になっても、海を越える日本人は、幕府の使節団でなければ、漂流者か密航者という時代が長く続いていた。ところが一八六六年、幕府は留学や商売で海外渡航をする者に「御免の印章」という免状を発給することを決めた。ついに密航ではなく、海外渡航する道が開かれたのだった。

ヴァン・リードは、ハワイに送る移民団に道が開かれたと思った。幕府との厄介な交渉が必要だったが、じっくり準備をすればいい。この免状を申請することに決めた。

だが、仙之助は一刻も早くハワイに送りたい。

ややこしい手続きに時間をとられるのはおしい。ほんの少し前までは、誰もが密航者だったのだ。仙之助は密航でかまわないだろうとヴァン・リードは考えていた。

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次回更新日 2021年11月21日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

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