- 2022年03月06日更新
仙之助編 七の二
出航の日は、瞬く間にやって来た。
仙之助は、粂蔵が旅立ちの選別にと外国人居留地のテーラーで仕立ててくれた白いシャツと黒いズボンを身につけた。数日来、良い天気が続いて、横浜は初夏の陽気だった。ましてハワイは常夏の国と聞いていたから、薄着でかまわないと思ったのだ。
船長のダニエルは、仙之助の姿を見て笑った。
「おい、ジョンセン、そんな格好では凍え死ぬぞ」
「ハワイは暖かいのではないのですか」
「ホノルルに行く前に我々は鯨を追いかけて北に向かう。鯨はもうハワイにはいない」
「北……ですか」
「そうだ。Kamchatka ground(カムチャッカグラウンド)だ」
「カム……、カム、チャッカ」
仙之助は舌をかみそうな地名がすぐに返せなかった。ただ、とてつもない冒険が始まることだけはわかった。聞いたこともない地名に胸が高鳴った。
ダニエルは船室から白い上着を取り出してきた。
異人たちが冬になると身につけている分厚い上着に似ていたが、それとは少し違って、大きな頭巾のようなものがついている。
「ジョンセン、寒くなったらこれを着ろ」
手渡された上着は、獣と油が入り交じったような匂いがした。思わず顔をしかめた仙之助にダニエルは笑いながら説明した。
「 Seal(あざらし)の皮だ」
Sealの意味を仙之助が理解するのは、北の海で実物に遭遇してからのことだ。
「北の島の住民から手に入れた。故郷の土産にするつもりだったが、お前にやるよ。俺の上着では大きすぎるだろう。お前くらいの年格好の少年が着ていたものだ」
頭巾にはふさふさとした毛皮がついていた。
「その毛皮はReindeer(トナカイ)だ」
Reindeer という単語には聞き覚えがあった。ユージン・ヴァン・リードが神風楼にクリスマスツリーを売りに来た時、赤く光る球と共に持ってきた飾りに鹿を模したものがあり、そう呼んでいた。大きなツノが印象的な鹿だった。詳しいことは理解できなかったが、クリスマスなる異国の正月祝いに欠かせないものだと学んだ。
「 Reindeer は、クリスマスの動物ですね」
「そうだ。だが、北の島では、狩猟で仕留めて生活の糧にする」
北の海では、想像もつかない世界があるのだろう。不思議と不安や恐怖は感じなかった。冒険に出かける興奮が全てに勝っていた。
「さあ、出発するぞ。碇をあげろ」
ダニエルの声が甲板に響き、船員たちの動きが一段と慌ただしくなった。